Radius: Off
Radius:
km Set radius for geolocation
Search
Loading…

『三国志』は、中国・西晋代の陳寿の撰による、三国時代(魏・呉・蜀)について書かれた歴史書である。成立時期は西晋による中国統一後の280年以降とされる。陳寿は蜀の旧臣であるが、その後晋に使えたという。「魏書」30巻、「呉書」20巻、「蜀書」15巻の計65巻から成る。

魏書(第30巻)にのみ、中国周辺の国々の記述があり、「烏丸鮮卑東夷傳」の中に倭国の記述があり、「魏志倭人伝」と呼んでいる。倭国に関して書かれている文字数は約2000字である。

魏志倭人伝の位置づけ

「東夷伝」の中には倭国以外に、夫餘,高句麗,東沃沮,挹婁,濊,韓の記述がある。魏からすると、東南にある(と思い込んでいた)倭国を同盟に巻き込み呉を背後から牽制しようと考えたようである。

三国時代地図

『三国志』魏書東夷伝倭人条

[tabs]
[tab title=”原文1″]

倭人在帶方東南大海之中依山嶌為國邑舊百餘國漢時有朝見者今使譯所通三十國從郡至倭循海岸水行歷韓國乍南乍東從郡至倭循海岸水行歷韓國乍南乍東到其北岸狗邪韓國七千餘里

[/tab]
[tab title=”読文1″]

倭人は帶方の東南、大海の中に在り。山島に依りて国邑(こくゆう)を為す。 旧百余国、漢の時、朝見する者有り。今、使訳通ずる所三十国。郡従(よ)り倭に到る。海岸を循(めぐ)りて水行し、韓国を歴(へ)て乍(ある)いは南し乍いは東し、其北岸、狗邪韓國に到ること七千余里。

[/tab]
[tab title=”口語訳1″]

倭人は、帯方の東南の大海のなかにある。山の多い島によって国や村をなしている。もとは百余国であった。漢のとき中国に朝見するものがあった。いま、使者と通訳の通交するのは、三十か国である。帯方郡から倭に行くには海岸に沿って船で進み、韓国を通過して南に向かったり、東に向かったりしながら倭の北岸の狗邪韓国に到着する。そこまでが七千余里である。

[/tab]
[tab title=”注1″]

帯方郡は魏の朝鮮支配の拠点、黄海北道沙里院付近か、京城付近という2説がある。漢の時代(後漢)よりも通交してくる国が減っているが、動乱期で通交を控えた国、魏以外の国と通交していた国があると想像される。あくまでも「30カ国」は魏との通交をしていた国の数と思われる。弥生期に北部九州において30~40の国があったという推察から、邪馬台国連合は北部九州に限定されるという説もあるが、この数字のみでは根拠に乏しいだろう。伊都国、奴国などのサイズからみて、日本全土に200以上は国(またはそれに準ずる連合体)があったと思われる。

[/tab]
[/tabs]

魏志倭人伝の邪馬台国の位置

[tabs]
[tab title=”原文2″]

始度一海千餘里至對馬國其大官曰卑狗副曰卑奴母離所居絶㠀方可四百餘里土地山險多深林道路如禽鹿徑有千餘戸無良田食海物自活乗船南北市糴

又南渡一海千餘里名曰瀚海至一大國官亦曰卑狗副曰卑奴母離方可三百里多竹木叢林有三千許家差有田地耕田猶不足食亦南北市糴

又渡一海千餘里至末盧國有四千餘戸濱山海居草木茂盛行不見前人好捕魚鰒水無深淺皆沈没取之

[/tab]

[tab title=”読文2″]

始めて一海を渡ること千余里、対馬國((タイカイコク?)に至る。その大官を卑狗(ヒク)と日い、副を卑奴母離(ヒナモリ)と日う。居る所絶島にして、方四百余里ばかり。土地は険しく深林多く、道路は禽鹿(キンロク)の徑(みち)の如し。千余戸有り。良田無く、海物を食いて自活し、船に乗りて南北に市糴(してき)す。

又南に一海を渡ること千余里、名づけて瀚海(かんかい)と日う。一大國(イチダイコク)に至る。官は亦(ま)た卑狗と日い、副を卑奴母離と日う。方三百里ばかり。竹木叢林(ちくもくそうりん)多く、三千許(ばかり)家有り。差(やや)田地有るも、田を耕すも猶(な)お食すること足らず、亦南北に市糴(してき)す。

又一海を渡ること千余里、末盧(マツロ)國に至る。四千余戸有り。山海に濱(ヒン)して居る。草木茂盛して行くに前人を見ず。好んで魚鰒(ぎょふく)を捕う。水の深浅と無く、皆沈没して之を取る。

[/tab]

[tab title=”口語訳2″]

初めて海を渡り、距離千里あまりで対海国(対馬)に着く。その大官は*卑狗(ヒク)といい、副官を*卑奴母離(ヒナモリ)という。絶海の孤島であり、広さは四百里四方あまりである。土地は険しく、森林が多く、道路は鳥や獣の道のようである、千戸程度の家がある。良田は無く、海産物を食べて自活しており、船に乗って南や北に行き交易をしている。

また南に千里あまり行くと、瀚海(かんかい)という海があり、一大國(壱岐)に着く。またその大官を卑狗(ヒク)といい、副官を卑奴母離(ヒナモリ)という。三百里四方の広さがあり、竹や林が多く、三千くらいの家がある。(対馬と比べて)やや田んぼがあるが、自国ですべてを賄うことはできない。この国もまた船に乗って南や北に行き交易をしている。

また南に千里あまり行くと、*末盧(マツロ)國に着く。四千戸あまりある。山と海にはさまれて生活している。草木が繁茂しており、歩いている前の人が見えない。魚や鰒(あわび)好んで獲っている。水が深くても浅くても関係なく、みんな潜って獲っている。

[/tab]
[tab title=”注2″]

卑狗(ヒク)は「彦」(ヒコ)とする説もある。
卑奴母離(ヒナモリ)は「夷守」(ヒナモリ)とする説もある。
市糴(市とは物を買うこと、糴は穀物類を買うこと)
一大國は壱岐のことを指す(原の辻遺跡が国の中心とされる。)
*末盧は現在の松浦を指すと思われる。

ここまでの行程は、ほとんどの学者の間でも意見は統一されている。

[/tab]
[/tabs]

[tabs]
[tab title=”原文3″]

東南陸行五百里到伊都國官曰爾支副曰泄謨觚柄渠觚有千餘戸世有王皆統屬女王國郡使往來常所駐

東南至奴國百里官曰兕馬觚副曰卑奴母離有二萬餘戸東行至不彌國百里官曰多模副曰卑奴母離有千餘家

南至投馬國水行二十日官曰彌彌副曰彌彌那利可五萬餘戸

南至邪馬壹國女王之所都水行十日陸行一月官有伊支馬次曰彌馬升次曰彌馬獲支次曰奴佳鞮可七萬餘戸餘戸

[/tab]

[tab title=”読文3″]

東南のかた陸行五百里にして、伊都國に至る。官を爾支(ニキ)と日い、副を泄謨觚(セツボコ)、柄渠觚ヘイキヨコ)と日う。千余戸有り。世王有るも皆女王國に統属す。郡使の往来して常に駐まる所なり。

東南のかた奴國に至ること百里。官を兕馬觚(ジバコ)と日い、副を卑奴母離と日う。二萬余戸有り。 東行して不彌國に至ること百里。官を多模(タモ)と日い、副を卑奴母離と日う。千余の家有り。

南のかた投馬國に至る。水行二十日。官を彌彌(ミミ)と日い、副を彌彌那利(ミミナリ)と日う。五萬余戸ばかり有り。

南のかた邪馬壱國(邪馬台國?)に至る。女王の都する所なり。水行十日、陸行一月。官に伊支馬(イキマ)有り。次を彌馬升(ミマショウ)と日い、次を彌馬獲支(ミマワキ)と日い、次を奴佳鞮(ナカテイ)と日う。七萬余戸ばかり有り。女王國より以北はその戸数・道里は得て略載すべきも、その余の某國は遠絶にして得て詳らかにすべからず。

[/tab]

[tab title=”口語訳3″]

東南に向かって陸上で五百里行くと伊都国に着く。大官を爾支(ニキ)副官を泄謨觚(セツボコ)、柄渠觚ヘイキヨコ)。千戸あまりある。代々(*)王がいるが、皆女王の国の属国である。(帯方)郡からの死者が往来するときに常にとどまるところである。

東南に向かって百里行くと奴国に着く。大官を兕馬觚(ジバコ)、副官を卑奴母離という。二千戸ほどある。東に行くと不弥国に百里で着く。大官を多模(タモ)、副官を卑奴母離という。一千戸ほどある。

南に向かって水上をいけば二十日で投馬国に着く。大官を彌彌(ミミ)副官を泄謨觚彌彌那利(ミミナリ)五万戸ほどある。

南に向かうと邪馬壱國(邪馬台國?)に到着する。女王の都である。水上ならば十日、陸路ならば一月(もしくは「水上を10日、さらに陸路を一月」)かかる。官を伊支馬(イキマ)、次を彌馬升(ミマショウ)、次を彌馬獲支(ミマワキ)次を奴佳鞮(ナカテイ)という。およそ七万戸ある。

[/tab]
[tab title=”注3″]

伊都国は現在の糸島市にあたる。(平原遺跡など)千戸とあるが、弥生後期の集落あとなどからみると1万戸余りの間違いである可能性がある。(魏略には万餘戸とあり)
奴国は福岡県春日市周辺であるとの説が多い。

投馬国への水上二十日をどのように解釈するか、かなり意見がわかれるところである。(九州説、中国説など)

ヤマタイコクをヤマイチコクとする説もあり。(壹と書かれている)邪馬台国への行程は、水上+陸路という解釈もある。

「世王有」の解釈は「代々」か「魏の世」という2説がある。

伊都国に外交窓口があったようだが、それならばなぜ末盧国(松浦)に着いてから陸路(陸行五百里)をとるのかという謎が残る。唐津から伊都国へは当時の海岸線を想定すると海岸沿いは絶壁で、歩行できず、迂回して山越えをせなばならない。伊都国に直接入れなかったのか、それとも「交易する30カ国」の説明するためにあえてこのような書き方をしたのか。(関連:魏志倭人伝の時代の伊都国

邪馬台国は7万戸とあるが、伊都国が仮に1万戸とすると、その7倍であるが、それほどの集落をもつ地域は未だ見当たらない。例えば、吉野ヶ里遺跡だと「最盛期には、外環壕の内部におよそ1,200人、吉野ヶ里を中心とするクニ全体では、5,400人くらいの人々が住んでいたのではないかと考えられています。(吉野ヶ里歴史公園資料)」そもそも倭人伝中の数字(距離、戸数)などは信頼できるのかという疑問もある。

[/tab]
[/tabs]

[tabs]
[tab title=”原文4″]

自女王國以北其戸數道里可得略載其餘旁國遠絶不可得詳

次有斯馬國次有已百支國次有伊邪國次有都支國次有彌奴國次有好古都國次有不呼國次有姐奴國次有對蘇國次有蘇奴國次有呼邑國次有華奴蘇奴國次有鬼國次有爲吾國次有鬼奴國次有邪馬國次有躬臣國次有巴利國次有支惟國次有烏奴國次有奴國

此女王境界所盡其

南有狗奴國男子爲王其官有狗古智卑狗不屬女王自郡至女王國萬二千餘里

[/tab]

[tab title=”読文4″]

女王国より以北、その戸数、道里は得て略載すべきも、その余の旁国は遠絶にして詳らかにすべからず。

次に斯馬國有り。次に己百支國有り。次に伊邪國有り。次に郡支國有り。次に彌奴國有り。次に好古都國有り。次に不呼國有り。次に姐奴國有り。次に対蘇國あり。次に蘇奴國有り。次に呼邑國有り。次に華奴蘇奴國有り。次に鬼國有り。次に為吾國有り。次に鬼奴國有り。次に邪馬國有り。 次に躬臣國有り。次に巴利國有り。次に支惟國有り。次に烏奴國有り。次に奴國有り。

此れ女王の境界の尽くる所なり。

その南に狗奴(クナ)國有り。男子を王となす。その官に狗古智卑狗(クコチヒク)有り。女王に属せず。郡より女王國に至ること萬二千余里。

[/tab]

[tab title=”口語訳4″]

女王国より北は、おおよその戸数や距離を記すことができるが、その他の国ははるか遠く、詳細はわからない。

次に斯馬國有り。次に己百支國有り。・・・・略

次に奴國有り。

これは女王の国の境界が尽きるところである。

その南に(女王の国の南か)狗奴(クナ)国があり、男子を王としている。その官を狗古智卑狗(クコチヒク)といい、女王には属していない。

(帯方)郡より女王国まで一万二千里である。

[/tab]
[tab title=”注4″]

狗古智卑狗(クコチヒク)を熊本県菊池市周辺で活躍した菊池氏であるとする説もあり。
(関連:狗奴国の考古学

[/tab]
[/tabs]

[tabs]
[tab title=”原文5″]

男子無大小皆黥面文身自古以來其使詣中國皆自稱大夫夏后少康之子封於會稽斷髪文身以避蛟龍之害今倭水人好沈没捕魚蛤文身亦以厭大魚水禽後稍以爲飾諸國文身各異或左或右或大或小尊卑有差

計其道里當在會稽東冶之東其風俗不淫男子皆露紒以木緜招頭其衣橫幅但結束相連略無縫婦人被髪屈紒作衣如單被穿其中央貫頭衣之
[/tab]

[tab title=”読文5″]

男子、大小と無く、皆黥面文身(げいめんぶんしん)す。古より以来、その使、中國に詣(いた)るに、皆自ら大夫と称す。夏后小康(かこうしょうこう)の子、会稽(かいけい)に封ぜらるるや、断髪文身して以て蛟龍(こうりゅう)の害を避く。 今、倭の水人、好んで沈没して、魚蛤(ぎょこう)を捕う。文身し亦(ま)た以て大魚・水禽(すいじゅう)を厭(はら)う。後稍(や)や以て飾りとなす。諸国の文身各々異なり、あるいは左にしあるいは右に、あるいは大にあるいは小に、尊卑(そんぴ)差あり。

その道里を計るに、当に会稽の東治(とうち)の東にあるべし。その風俗、淫らならず。男子は皆露紒(ろけい)し、木綿を以て頭に招(か)け、その衣、横幅(おうふく)にして、ただ結束して相連(あいつら)ね、略(ほ)ぼ縫うことなし。 婦人は被髪屈紒(ひはつくっけい)し、衣を作ること単被(たんぴ)の如く、その中央を穿(うが)ち、頭を貫きてこれを衣(き)る。

[/tab]

[tab title=”口語訳5″]

男子は大小にかかわらず皆、顔や身体中に入れ墨をしている。古来より倭国の使者が中国にくるときは、自ら大夫と称していた。夏后小康の子が会稽()に封ぜられると、髪を切って入れ墨をして魔物の害を避けた。今、倭の水神は海に潜って魚、蛤を獲っている。 同じく入れ墨をして大魚(サメなど?)や水獣をさけるのである。それを飾りとしているケースもあるようだ。諸国の入れ墨は様々あり、あるものは左、あるものは右、その大小などで尊卑をわけることがある。

その行程を計測すると、倭国は会稽の東にあることになる。その風俗は乱れていない。男子は皆かぶりものをせず、木綿を頭からかけ、衣服は横幅衣でただ結んで束ねてつなげ、ほとんど縫っていない。女性は髪を結っていて、衣服は中央に穴をあけそこから頭を出して着ている。

[/tab]
[tab title=”注5″]

夏后小康:夏(か)の王。越国の祖とされる。倭国と越国の風習は似ているとされる。
会稽の東:実際は東ではない。
横幅衣:布の長辺を体に巻く衣服とされる。(他説あり)
被髪:かんむりをつけていない状態 屈紒:髪を結うこと

[/tab]
[/tabs]

[tabs]
[tab title=”原文6″]

種禾稻紵麻蠶桑緝績出細紵縑緜其地無牛馬虎豹羊鵲兵用矛楯木弓木弓短下長上竹箭或鐵鏃或骨鏃所有無與儋耳朱崖同

倭地温暖冬夏食生菜皆徒跣有屋室父母兄弟臥息異處以朱丹塗其身體如中國用粉也食飲用籩豆手食其死有棺無槨封土作冢始死停喪十餘曰當時不食肉喪主哭泣他人就歌舞飲酒已葬擧家詣水中澡浴以如練沐

[/tab]

[tab title=”読文6″]

禾稲(かとう)・紵麻(ちょま)を種え、蚕桑(こぐわ?)緝績(しゅうせき)し、細紵(さいちょ)・縑緜(けんめん)を出だす。 その地には牛・馬・虎・豹・羊・鵲なし。 兵は矛・盾・木弓(きゆみ)を用う。木弓は下を短く上を長くし、竹箭(チクセン)はあるいは鉄鏃、あるいは骨鏃なり。有無する所、儋耳(たんじ)・朱崖(しゅがい)と同じ。

倭の地、温暖にして、冬・夏生菜を食す。皆徒跣(とせん)す。 屋室有り。父母兄弟の臥息するに処を異にす。朱丹を以てその身体に塗る、中國の粉を用うる如きなり。食飲するに籩豆(へんとう)を用い、手食す。 その死には棺有れども槨(かく)無く、土を封じて冢(ちょう)を作る。始めて死するや、停喪(ていそう)すること十余日。時に当たり肉を食わず。喪主哭泣(こっきゅう)し、他人、就きて歌舞し飲酒す。已に葬るや、家をあげて水中に詣(いた)りて澡浴(そうよく)し、以て練沐(れんもく)の如くす。

[/tab]

[tab title=”口語訳6″]

稲や苧麻を植え、蚕を育て、紡いで細い麻糸、綿、絹織物を作っている。その他は、牛、牛、虎、豹、羊、鵲(セキ)はいない。武器は矛、盾、木の弓を用い、弓の下を短くして上を長めにしている。竹の矢に鉄のやじり、骨の矢じりを用いる。もののあるなし(生活用品など)は儋耳(たんじ)・朱崖(しゅがい)と同じである。

倭の地は温暖で、冬でも夏でも生野菜を食べる。みな裸足である。居室があり、父母兄弟は寝るところは別々である。朱丹を体に塗っている。中国で粉を用いているようなものである。飲食(の食器)には高杯を用いて、手で食べる。人が死んだときは、葬るのに棺はあるが槨はない。土を盛って塚を作る。死後十日あまりは喪に服す。そのときには肉をたべず、喪主は大声でなき、他の人達は歌ったり踊ったりして酒を飲む。喪があけると、家中総出で水中で清め、練沐のようにする。

[/tab]
[tab title=”注6″]
牛・馬:当時からすでにいたようである。
籩豆:豆は高杯、籩は竹とされる
停喪すること十余日:直訳すると「喪を停止する」ことになるが、文脈より、喪に服することか。

[/tab]
[/tabs]

[tabs]
[tab title=”原文7″]

其行來渡海詣中國恒使一人不梳頭不去蟣蝨衣服垢汚不食肉不近婦人如喪人名之爲持衰若行者吉善共顧其生口財物若有疾病遭暴害便欲殺之謂其持衰不謹

出真珠青玉其山有丹其木有柟杼豫樟楺櫪投橿烏號楓香其竹篠簳桃支有薑橘椒蘘荷不知以爲滋味有獮猴黒雉

[/tab]

[tab title=”読文7″]

その行来して海を渡り、中國にいたるに、恒に一人をして頭を梳(くしけず)らせず、蟣蝨(きしつ)を去らせず、衣服垢に汚させ、肉を食わせず、婦人を近づけず、喪人の如くせしむ。これを名づけて持衰(じさい)と為す。もし行く者吉善なれば、共に其れに生口・財物を顧(あた)う、若し疾病し、暴害に遭うこと有らば、便(すなわ)ち之を殺さんと欲す。その持衰謹まずと謂(おも)えばなり。

真珠・青玉を出す。その山には丹あり。その木には柟(くす)・杼(とち)・豫樟(くすのき)・楺(ぼけ)・櫪(くぬぎ)・投(すぎ)・僵(かし)・烏号(やまぐわ)・楓香(かえで)あり。その竹には篠(ささ)・簳(やだけ)・桃支(かづらだけ)。薑(しょうが)・橘(たちばな)・椒(さんしょう)・蘘荷(みょうが)あるも、以て滋味をなすを知らず。獮猿(じこう?)・黒雉(くろきじ)あり。

[/tab]

[tab title=”訳7″]

海を渡って往来し、中国に行く場合には、常に1人のものに、髪をとかせず、しらみをとらせず、衣服が垢で汚れたままにさせ、肉を食わせず、婦人を近づけず、喪に服している人のようにしておく。これを名づけて持衰(*)という。もしその航海が安全であれば、その者に奴隷や財宝を与える。もし病や暴風の害に遭えば、この者を殺す。その持衰が謹しまなかったからである。

真珠と青玉をよく産出する。その山には丹(*)がある。木は、くす、とち、くすのき、ぼけくぬぎ、すぎ、かし、やまぐわ、かえでがある。竹は篠竹、やだけ、かづらだけがある。しょうが、たちばな、さんしょう、みょうががあるけれど、食物として食べることを知らない。大猿や黒雉がいる。

[/tab]
[tab title=”注7″]

持衰:船に一緒に乗ったか、現地に残ったか、両説あり。
丹:山に産する赤土

[/tab]
[/tabs]

[tabs]
[tab title=”原文8″]

其俗舉事行來有所云爲輒灼骨而卜以占吉凶先告所卜其辭如令龜法視火坼占兆其會同坐起父子男女無別人性嗜酒見大人所敬但搏手以當脆拝

其人壽考或百年或八九十年其俗國大人皆四五婦下戸或二三婦婦人不淫不妒忌不盗竊少諍訟其犯法輕者没其妻子重者没其門戸及宗族尊卑各有差序足相臣服

[/tab]

[tab title=”読文8″]

その俗、挙事行来に、云為(うんい)する所あれば、輒(すなわ)ち骨を灼きて卜(ぼく)し、以て吉凶を占い、先ず卜する所を告ぐ。その辞は令亀の法の如く、火坼(タク)を観て兆を占う。 その会同(かいどう)・坐起(ざき)には、父子男女別なし。人、性として酒を嗜(たしな)む。大人の敬する所を見れば、ただ手を摶(う)ち以て跪拝(きはい)に当つ。

その人寿考、或は百年、或は八、九十年。その俗、国の大人は皆四、五婦、下戸も或はは二、三婦。婦人淫せず、妬忌(とき?)せず、盗窃せず、諍訟少なし。その法を犯すや、軽き者はその妻子を没し、重き者はその門戸および宗族を没す。尊卑各々差序あり、相臣服するに足る。
[/tab]

[tab title=”訳8″]

その習俗では、行事や往来で何かあれば、すぐに骨を焼いて卜占して吉凶を占い、あらかじめその結果を告げる。そのことばは中国の令亀の法(*)と同じであり、ひびをみて兆候をみる。集会や座るセキには父子男女の区別はない。人々は酒を好んでたしなむ。偉い人にあえば、ただ拍手するだけでひざまずいて拝礼するかわりとする。

倭人の寿命は100年、あるいは8、90年。貴人は妻を4、5人、一般人でも2、3人。婦人は淫らではなく、嫉妬などをしない。窃盗などはせず訴訟も少ない。法を犯した場合は、軽い場合はその妻子を取り上げ、重い場合は、一族を没収する。尊卑には様々な序列があり。たがいによく服従する。

[/tab]
[tab title=”注8″]

令亀の法:中国の殷王朝の甲骨文字などがあり、亀の甲羅や牛の骨などを火で炙ってひびの状況をみる。

[/tab]
[/tabs]

[tabs]
[tab title=”原文9″]

收租賦有邸閣國國有市交易有無使大倭監之自女王國以北特置一大率檢察諸國諸國畏憚之常治伊都國於國中有如刺史王遣使詣京都帶方郡諸韓國及郡使倭國皆臨津捜露傳送文書賜遣之物詣女王不得差錯

下戸與大人相逢道路逡巡入草傳辭說事或蹲或跪兩手據地爲之恭敬對應聲曰噫比如然諾

[/tab]

[tab title=”読文9″]

租賦(そふ)を収む、邸閣(定格)あり、國國に市あり。有無を交易し、大倭をしてこれを監せしむ。女王國より以北には、特に一大率を置き、諸國を検察せしむ。諸國これを畏憚(いたん)す。常に伊都國に治す。國中において刺史の如きあり。王、使を遣わして京都・帯方郡・諸韓國に詣り及び、郡の倭國に使するに、皆津に臨みて捜露(そうろ)し、文書を伝送して賜遺の物を女王に詣るに、差錯(ささく)するを得ざらしむ。

下戸、大人と道路に相逢えば、逡巡(しゅんじゅん)して草に入る。辞を伝え事を説くに、あるいは蹲(うづくまり)りあるいは跪(ひざまず)き、両手は地に拠り、これが恭敬を為す。対応の声を噫(あい)という、比するに然諾の如し。

[/tab]

[tab title=”訳9″]

租税や賦を徴収し、その倉庫がある。国々には市があり、そこにあるものと無いものを交易している。大倭(*)にこれを監督させている。女王の国より北には、特別に一大率(*)を置いて諸国を監督させている。諸国はこれをおそれはばかっている。この役目は常に伊都国が担う。国のなかで刺史のような役割をしている。王(女王?)が使者を使わして洛陽の都や帯方郡、諸韓国に派遣したり、郡から倭国に使者が派遣されるとき、いつも港に出向いて捜索して、文章を伝送したり、賜り物を女王に届けるのに、間違いがないようにさせた。

一般人が貴人と道路で出会った時は、後ずさりして草の中に入る。言葉を伝えたり、説明したりするときには、うづくまったり、ひざまずいたりして、両手は地面について、つつしみうやまう姿勢をとる。対応する答えは「噫(あい)」といって、中国語で「然諾(わかりました)」の意と同じである。

[/tab]
[tab title=”注9″]

大倭:邪馬台国の設置した官の名称か。
一大率:邪馬台国からの派遣か。
刺史:魏ではいくつかの郡を統括する州の長官を指す。当時は9つの州があり、その下に郡、県があった)すなわち一大率は「いくつかの国々を統括する長官」ということになる。

[/tab]
[/tabs]

[tabs]
[tab title=”原文10″]

其國本亦以男子爲王住七八十年倭國亂相攻伐歷年乃共立一女子爲王名曰卑彌呼事鬼道能惑衆年已長大無夫壻有男弟佐治國自爲王以來少有見者以婢千人自侍唯有男子一人給飲食傳辭出入居處宮室樓觀城柵嚴設常有人持兵守衞

[/tab]

[tab title=”読文10″]

その國、本また男子を以て王と為す。住(とど)まること七、八十年、倭國乱れ、相攻伐(こうばつ)すること歴年、乃ち共に一女子を立てて王となす。名を卑弥呼という。鬼道に事(つか)え、能く衆を惑わす。年已に長大なるも、夫婿なく、男弟あり、佐(たす)けて國を治む。王となりてより以来、見ることある者少なく、婢千人を以て自ら侍せしむ。ただ男子一人あり、飲食を給し、辞を伝え、居処に出入す。宮室・楼観は、城柵を厳かに設け、常に人あり、兵を持して守衛す。

[/tab]

[tab title=”訳10″]

その国も、もとは男子を王としていた。そのような状態が7、80年続き、倭国は乱れて、互いに攻撃しあうようになり、幾年かが過ぎた。そこで、1人の女子を共立(*)して王にした。名前を卑弥呼という。鬼道(*)を使いこなし、人々を惑わせる力があった。すでに年長であったが、夫はなく、弟がひとりおり、補佐して国をおさめた。王となってから見たことがある者は少なく、千人の侍女をはべらせていた。ただ男子がひとりいて、食べ物を運んだり、言葉をつたえたりして、居室に出入りしていた。宮室や楼観は城柵を厳重に設け、常に兵隊を配置して守っていた。

[/tab]
[tab title=”注10″]

共立:倭の諸国の王による共立か。
鬼道:シャーマニズム、もしくは道教といわれる。

[/tab]
[/tabs]

[tabs]
[tab title=”原文11″]

女王國東渡海千餘里復有國皆倭種又有侏儒國在其南人長三四尺去女王四千餘里又有裸國黒齒國復在其東南船行一年可至参問倭地絶在海中洲㠀之上或絶或連周旋可五千餘里

[/tab]
[tab title=”読文11″]

女王國の東、海を渡ること千余里、また國あり、皆倭種なり。また侏儒(しゅじゅ)國のその南に在る有り。人の長三、四尺、女王を去ること四千余里。また裸(ら?)國・黒歯(こくし)國のまたその東南に在る有り。船行一年にして至るべし。 倭の地を参問するに、絶えて海中洲島の上に在り、あるいは絶えあるいは連なり、周施五千余里ばかり。

[/tab]
[tab title=”訳11″]

女王の国の東には、海を渡って千里ばかりいくとまた国がある。これも皆倭と同一の種族である。また侏儒(*)国がその南にあり、人々の身長は3、4尺である。女王の国から四千里ばかり離れたところである。また裸国・黒歯国があり、船で一年行くと到着できる。倭の地を詳細にみると、大海の中の離れた島の中にあり、離れたり連なったりしている。一周まわると五千里くらいである。

[/tab]
[tab title=”注11″]

侏儒:背が低いという意味もあり。

[/tab]
[/tabs]

[tabs]
[tab title=”原文12″]

景初二年六月倭女王遣大夫難升米等詣郡求詣天子朝獻太守劉夏遣吏將送詣京都

其年十二月詔書報倭女王曰制詔親魏倭王卑彌呼帶方太守劉夏遣使送汝大夫難升米次使都市牛利奉汝所獻男生口四人女生口六人斑布二匹二以到汝所在踰遠乃遣使貢獻是汝之忠孝我甚哀汝今以汝爲親魏倭王假金印紫綬裝封付帶方太守假授汝其綏撫種人勉爲孝順

汝來使難升米牛利渉遠道路勤勞今以難升米爲率善中郎將牛利爲率善校尉假銀印青綬引見勞賜遣還今以絳地交龍錦五匹 絳地縐粟罽十張蒨絳五十匹紺青五十匹答汝所獻貢直 又特賜汝紺地句文錦三匹細班華罽五張白絹五十匹金八兩五尺刀二口銅鏡百枚真珠鉛丹各五十斤皆裝封付難升米牛利還到録受 悉可以示汝國中人使知國家哀汝故鄭重賜汝好物也

[/tab]
[tab title=”読文12″]

景初二年六月、倭の女王、大夫難升米等を遣わし郡に詣(いた)り、天子に詣りて朝献せんことを求む。太守劉夏、使を遣わし、将(も)って送りて京都に詣らしむ。

その年十二月、詔書して倭の女王に報じて曰く、「親魏倭王卑弥呼に制詔す。帯方の太守劉夏、使を遣わし汝の大夫難升米・次使都市牛利を送り、汝献ずる所の男生口四人・女生口六人・班布二匹二丈を奉じて以て到らしむ。汝がある所踰(はる)かに遠きも、乃ち使を遣わし貢献すはこれ汝の忠孝、我れ甚だ汝を哀れむ。今汝を以て親魏倭王となし、金印紫綬を假(か)し、装封して帯方の太守に付し假綬せしむ。汝、それ種人を綏撫(すいぶ)し、勉めて孝順為れ。

汝が来使難升米・牛利、遠きを渉り、道路勤労す。今、難升米を以て率善中郎将となし、牛利を率善校尉となし、銀印青綬を假し、引見労賜して遣わし還す。今、絳地交竜錦五匹・絳地縐粟罽十張・蒨絳五十匹・紺青五十匹を以て汝が献ずる所の貢直に答う。また、特に汝に紺地句文錦三匹・細班華罽五張・白絹五十匹.金八両・五尺刀二口・銅鏡百牧・真珠・鉛丹各々五十斤を賜う。皆装封して難升米・牛利に付さん。還り到らば録受し、悉く以て汝が國中の人に示し、國家汝を哀れむを知らしむべし。故に鄭重に汝に好物を賜えり」と。

[/tab]
[tab title=”訳12″]

景初二年(*)(238年)六月、倭の女王は大夫の難升米たちを帯方郡に派遣して、天子に朝貢したいと求めた。太守の劉夏は使いを派遣して都(洛陽)まで送らせた。

その年の十二月、魏の皇帝は詔を下して倭の女王に答えて言った。「親魏倭王卑弥呼と制詔する。帯方の太守劉夏が使者を派遣し、汝の大夫の難升米・次使都市牛利を送り、汝の献上した男の奴隷4人、女の奴隷6人、班布二匹二丈を持ってこさせた。汝の住んでいるところは遥かに遠いところであるにもかかわらず、使者を遣わし朝貢してくるのは、汝の忠孝を示すもので、わたしは汝をたいへん哀れむ。今、汝を親魏倭王として、金印紫綬を与えよう。それを封印して帯方郡太守に持たせて汝に与えよう。汝の種族を安んじて、孝順に勉めよ。

汝の使者である難升米・牛利は遠く大いに苦労をした。難升米を率善中郎将、牛利を率善校尉として銀印青綬を与え、引見してねぎらい、金品を与え還そう。絳地交竜錦五匹・絳地縐粟罽十張・蒨絳五十匹・紺青五十匹を汝が献上した貢物に対して贈ろう。さらに特別に紺地句文錦三匹・細班華罽五張・白絹五十匹.金八両・五尺刀二口・銅鏡百牧・真珠・鉛丹各々五十斤を与えよう。みな封をして難升米・牛利に託す。国に帰ったならば、記録して受取り、汝の国中の人々に示して、わが国家が汝の国を哀れんでいることを知らしめよ。そのために丁重に汝に良いものを与えるのである。

[/tab]
[tab title=”注12″]

「景初二年」とあるが、魏が楽浪や帯方郡を収めていた公孫淵を滅ぼしたのが。景初二年の八月である。魏が帯方郡に太守を置くのは、景初二年八月以後のことであり、これは「景初三年」のあやまりか。

[/tab]
[/tabs]

[tabs]
[tab title=”原文13″]

正始元年太守弓遵遺建中校尉梯儁等奉詔書印綬詣倭國拜假倭王并齎詔賜金帛錦罽刀鏡采物倭王因使上表答謝詔恩

其四年倭王復遺使大夫伊聲耆掖邪狗等八人上獻生口倭錦絳青縑緜衣帛布丹木フ短弓矢掖邪狗等壹拜率善中郎將印綬

其六年詔賜倭難升米黃幢付郡假授

其八年太守王頎到官倭女王卑彌呼與狗奴國男王卑彌弓呼素不和遺倭載斯烏越等詣郡相攻擊狀遣塞曹掾史張政等因齎詔書黃幢拜假難升米爲檄告之

[/tab]
[tab title=”読文13″]

正始元年、太守弓遵、建中校尉梯儁等を遣わし、詣書・印綬を奉じて、倭國に詣り、倭王に拝假し、ならびに詣を齎し、金帛・錦罽・刀・鏡・采物を賜う。倭王、使に因って上表し、答へて詔恩を謝す。

その四年、倭王、また使大夫伊声耆(イセイギ)・掖邪狗(ヤヤコ)等八人を遣わし、生口・倭錦・絳青縑・緜衣・帛布・丹・木フ ・短弓矢を上献す。掖邪狗等、率善中郎将の印綬を壱拝す。

その六年、詔して倭の難升米に黄幢(こうどう)を賜い、 郡に付して仮授せしむ。

その八年、太守王頎官に到る。倭の女王卑弥呼、狗奴國の男王卑弥弓呼(ヒミココ?)と素より和せず。倭の載斯烏越等を遣わして郡に詣り、相攻撃する状を説く。塞曹エン史張政等を遣わし、因って詔書・黄幢をもたらし、難升米に拝仮せしめ、檄をつくりてこれを告喩す。

[/tab]
[tab title=”訳13″]

正始元年(240年)、太守である弓遵が、建中校尉の梯儁らを派遣し、詣書・印綬を捧げて倭国に到着して、倭王に与え、詔をもたらし金帛・錦罽・刀・鏡・采物を下賜した。それに対し倭王は使者を送り、上表して詔に感謝した。

その四年(243年)倭王はまた大夫の伊声耆・掖邪狗ら八人を遣わして、生口・倭錦・絳青縑・緜衣・帛布・丹・木フ ・短弓矢を献上した。掖邪狗らは率善中郎将の印綬を受けた。

その六年(245年)倭の倭の難升米に黄幢(黄色い旗)を下賜し、郡(の太守?)に託して授けた。

その八年(247年)、太守王頎が着任した。倭の女王卑弥呼は、狗奴國の男王卑弥弓呼と以前から不仲であった。倭の載斯烏越らを帯方郡に遣わし、互いに攻撃しあっている(戦争中?)状況を報告させた。(そこで帯方郡から)塞曹エン史張政らを遣わし、詔書・黄幢を持って難升米に与え、檄文をつくって告諭(告げさとす)させた。

[/tab]
[tab title=”注13″]

狗奴國:熊本周辺や愛知周辺にあったとする説がある。
中郎将:交代で宿直して宮城を護衛する武官の長。

[/tab]
[/tabs]

[tabs]
[tab title=”原文14″]

卑彌呼以死大作冢徑百餘歩狥葬者奴碑百餘人

更立男王國中不服更相誅殺當時殺千餘人復立卑彌呼宗女壹與年十三爲王國中遂定政等以檄告

壹與壹與遣倭大夫率善中郎將掖邪狗等二十人送政等還因詣臺獻上男女生口三十人貢白珠五千孔青大句珠二枚異文雜錦二十匹
[/tab]
[tab title=”読文14″]

卑弥呼以て死す。大いに冢(チョウ)を作る。径百余歩、徇葬する者、奴婢百余人。

更に男王を立てしも、國中服せず。更更相誅殺し、当時千余人を殺す。また卑弥呼の宗女壱与年十三なるを立てて王となし、國中遂に定まる。政等、檄を以て壱与を告喩す。

壱与、倭の大夫率善中郎将掖邪狗等二十人を遣わし、政等の還るを送らしむ。因って台に詣り、男女生口三十人を献上し、白珠五千孔・青大勾珠二牧・異文雑錦二十匹を貢す。

[/tab]
[tab title=”訳14″]

卑弥呼は死んだ。(*)大きな塚(墓)を作った。直径(?)百余歩で、徇葬者の奴婢は百余人。あらためて男王を擁立したが、国中の混乱は治まらなかった。戦いは続き千余人が死んだ。そこで卑弥呼の宗女(*)壹与(とよ・いよ)年十三才を擁立し女王となし、国中が遂に治まった。政等は、檄文を以て壹与を激励した。壹与は、倭の大夫率善中郎掖邪狗等二十人を派遣して、政等が(魏へ)還るのを見送らせた。そして、台(魏都洛陽の中央官庁)に詣でて、男女生口三十人を献上し、白珠五千孔・ 青大勾珠二枚・異文雑錦二十匹を献上した。

[/tab]
[tab title=”注14″]

「卑弥呼以て死す」作家の松本清張はこの「以て」に着目し、過去の中国の文献で「以て」の記述を調べ上げ、「以て」が病死などではなく「殺された」という意味を持つと指摘した。

「宗女」同宗(一族・同姓・姓)の女、姪、一族の女、一族の世継ぎの娘(大漢和辞典 巻3修訂版)

「政」は張政のことか

[/tab]
[/tabs]

 

 

Loading…

Comments (3)

  1. 池口小太郎

    吉野ヶ里に代表される九州の農耕地帯を知らなかったようですね
    加えて
    当時公孫氏の遺民などの流入から自国を守る必要のある邪馬台国が、その版図を隠すことをしなかったと考えることはできません
    今日もなお不明なのはこのためであることは明らかです
    そして言うまでもなく卑弥呼と天皇家がつながりがあるとしたなら、明らかに日本の古書からは卑弥呼は明確な天皇権力の継承者やその立場ではなかったともいえます
    尤も日本の記紀自体が不比等らの戯作ともいえるのですね

  2. 池口小太郎

    難升米らが
    列島の版図を不明にしたからこその業績ですね
    公孫氏の遺民らの情報から、というよりも当時の大陸の上気宇などの常識から
    自国の版図を知らせること自体、武装解除のようなものですから
    現実に蜀は版図を魏に知らしめ降伏しようとさえしたのですが、劉備が版図を取得し占拠したのでしたね

    1. コメントありがとうございます。おっしゃるとおり、版図を隠すというのは当然の行為ですよね。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。