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邪馬台国の時代(三国時代)の東アジア情勢

邪馬台国の時代(三国時代)の東アジア情勢

邪馬台国の時代の東アジアは混乱期にあり、中国と周辺民族との関係が大きく変化した時代であった。魏志倭人伝にみられる倭国と魏の関係だけでなく、東アジア全体を見直してみたい。

西暦238年、朝鮮半島の楽浪郡・帯方郡一体を支配していた公孫氏が魏に滅ぼされる。公孫氏は2世紀末ごろから遼東を拠点に勢力を拡大していた。

西暦(年) 日本の出来事 中国、朝鮮半島
184   後漢の衰退
黄巾の乱
190   公孫氏(度)遼東を拠点に勢力を拡大
208   赤壁の戦い(曹操vs孫権・劉備)
221 蜀が建国し三国時代に
(魏・呉・蜀)
公孫氏が帯方郡統治
229 魏がクシャーナ朝に「親魏大月氏王」の金印を贈る
232 公孫氏と魏の関係悪化
234 五丈原の戦い(魏vs蜀)
蜀の勢力が弱まる
236 公孫氏が魏に反旗
237 呉が公孫氏に燕王の称号を与える
236 公孫氏が魏に鎮圧される
239 邪馬台国の卑弥呼が魏に使いを送る
248 卑弥呼死す。宗女の台与を女王とする。
266 女王(台与)が晋に使いを送る。 魏が滅亡
晋が起こる
280 呉が滅亡
三国統一(晋)
陳寿が三国志を撰

 

この状況に対し、239年(238年という説もあり)に邪馬台国の卑弥呼が魏に使いを送っている。これは偶然ではなく、朝鮮半島の情勢に応じた対応だと思われる。

邪馬台国は後漢が衰退した後、鉄資源や先進物の獲得のために半島諸国と直接に通交しており、公孫氏滅亡後も魏を通してこの利益を享受しようとしたのだろう。

この時代は中国は魏・呉・蜀の三国が鼎立しており、朝鮮半島を含め、周囲の国々はこの動向を注視していたにちがいない。邪馬台国は魏が有力だと感じ、朝貢などをしてその威信を利用し、先に述べた鉄資源などを確保することにより、国内の統治に活用したことは容易に想像がつく。

朝鮮半島の公孫氏も魏に服属(揚烈将軍・遼東太守に任命)していたが、魏と対立する呉に接近し燕王の称号を手にしたり、独自の年号を立てるまでに至る。この後、再び魏と公孫氏の関係が一時的に回復するのだが、魏が五丈原の戦いで蜀をやぶり、諸葛亮孔明が病没すると蜀の力が弱まり、この方面の戦力に余裕ができ半島方面への圧力が強まり、公孫氏は滅亡する。

呉は日本の有力国とも提携を模索していた?

三国時代 東アジア関係図

魏が倭国に「親魏倭王」の印を与えたのも、呉と倭国の提携を警戒していたことによるのかもしれない。呉の孫権は現在の東南アジアの諸国から朝貢を受けており交易の範囲は一部ヨーロッパにも及ぶ広範囲のものであった。

当然ながら日本にも来ていたようで、呉の年号(赤鳥)が入った神獣鏡鳥居原狐塚古墳(山梨)安倉高塚古墳(宝塚市)で見つかっており、呉が日本の国との提携を模索していた可能性も指摘されている。

また、邪馬台国が九州である場合、その背後にある国々(中国地方や近畿地方以東)と呉が提携(もしくは柵封)したり、交易などを行っていた可能性もでてくる。魏志倭人伝に出てくる邪馬台国と対立していたとされる狗奴国などもその候補にあがる。(魏と倭国をけん制する同盟、提携など)

このように三国時代は日本の存在が中国の歴史上でもっとも高まった時代ではなかろうか。現代においては「魏志倭人伝」の記述が当時の多くのイメージをつくりあげているが、実際はほんの一部分のイメージにしかすぎないのである。もしかすると、今後、公孫氏や呉などの遺物から邪馬台国や当時の日本に関する情報が得られることがあるかもしれない。

現代の国境意識は排除して考える

建業と洛陽の距離と九州と近畿の距離

一般的なイメージとして、「中国は広大だ」「日本は狭い」という印象がある。たしかにその通りなのだが、この時代の魏の首都である洛陽と呉の建業との距離(上記赤丸)は日本で言えば九州から愛知県あたりまでとなる。面積ではなく距離でみると、意外と日本は長いのである。海路を使えば九州(西岸、北岸)から関東に行くよりも中国に行くほうが近かったりする。

この時代に九州から近畿にひとつの大きい国(邪馬台国)があったとすれば、中国からみれば無視できない存在だったろう。また逆の見方としては、この時代の日本に九州から近畿にわたる巨大な国家が存在し得たのだろうかという疑問も湧いてくる。

ひとつ言えることは、古代を考える際には、現代の国境を取り払って考えるということだろう。

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