最新の発掘状況や近畿説と九州説
多くの歴史家や作家までをも魅了する「ヤマタイコク」。神秘的な女王や、ヤマト政権の成り立ちの解明の糸口になるかもしれないという存在が人々の関心を惹きつけるのか。江戸時代から論争になっている「邪馬台国の場所」はどこなのか?
「ヤマタイコク」の所在は近畿、九州説に限らず、北は東北地方から南は沖縄まで、日本各地でその存在を主張しているのである。 日本の史料には「ヤマタイコク」は存在せず、中国の『魏書』の東夷伝倭人の条に2000字の記載があるのみである。わずか2000字の解釈(方角や距離)を巡って幾多の論争がおきたが、文献資料から結論が得られることはないだろう。
ならば考古学的な発見に期待したいところだが、有力な遺跡(纒向遺跡や吉野ヶ里遺跡など)は多数発見されているものの、決定的な証拠はみつかっていない。(新聞などのメディアをみていると、歴史学〈大学〉のパワー関係もあり畿内説に傾きつつあるような気配もあり、、、。また研究母体でもある自治体側も観光資源になりえる発掘成果に期待を寄せ、わが町こそ”邪馬台国”だと主張する。)
ここでは畿内、九州を中心に”邪馬台国のイマ”をみつめていきたいと思う。
「魏志倭人伝」から邪馬台国の位置は読み取れない?
明治43年(1910年)に東京帝国大学の白鳥教授、京都帝国大学の内藤教授がそれぞれ、邪馬台国の所在地を九州、畿内と唱えて以来100年あまり、魏志倭人伝の記述をめぐり、幾多の論争があった。 しかし結論はでない。なぜかというと、資料をそのまま素直に読むと、その位置ははるか太平洋の沖に行ってしまうのである。(詳細は「魏志倭人伝」参照)
そこで、研究者たちは不弥国以降の方角が「南」となっているのを「東」と読替えて瀬戸内海の航路を進んだとしたり(その多くは畿内説論者)、行程の日数や距離を縮めてみたり、邪馬台国の記述の後にある「水行十日陸行一月」を投馬国からの距離ではなく、帯方郡からの距離(行程)を指すとしたり(九州論者に多い)、「自郡至女王國萬二千餘里(12,000里)」という距離だけを採用する(九州論者)、などと解釈した。魏志倭人伝では「里」を用いたり「日数」を用いたりしており、そもそも数字正確性も疑わしく、伝聞や推測も入っている可能性が高い。
魏志倭人伝に記されている行程は下記の通りである。
帯方郡→狗邪韓国 7,000里
→対馬 1,000里
→一大國(壱岐) 1,000里(帯方郡より9,000里)
→末蘆国(唐津)1,000里
→伊都国(糸島半島)南東へ陸行 500里(帯方郡より10,500里)
→奴国 東へ陸行100里
→不弥国 東へ陸行100里
→投馬国 南へ水行20日
→邪馬台国 南へ水行10日、陸路1月
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総距離(帯方郡→邪馬台国):12,000里
上記図のグリーンとピンクの同心円(点線)は位置が特定している一大國(壱岐)からのおおよその距離を示した。 帯方郡からの総距離が12,000里であることから、一大國(壱岐)までの9,000里を引くと、一大國(壱岐)からおよそ3,000里のところに邪馬台国があることになる。距離や方角の情報だけで考えると、近畿説では7,000里よりも長くなり、九州説をとると投馬国や邪馬台国へ至るための「陸行、水行」の説明が難しくなる。(九州から出ていまう)
*1里を70m程度と想定
このため、昭和を代表するベストセラー作家である松本清張も、「倭人伝に出てくる距離や日数は、陰陽五行説から造作された虚妄の数字にすぎず、拘束されること自体に意味がない」と説いていた。魏志倭人伝が全くのフィクションだとは考え難いが、実際に魏の使者が邪馬台国に行ったかどうかも疑わしいし、倭人からの伝聞だとすると、防衛上の理由から正確な距離や場所は教えないことも考えられる。当時にどれくらい正確な日本の地図があったかを考えると、距離と方角をもとに推測するのは限界があるように思われる。さらに、戸数などの数字も誇張されている可能性が高く信ぴょう性は薄いだろう。
距離や方角以外の情報では「顔や身体中に入れ墨」「木綿の貫頭衣」「生野菜を食べる」[赤色顔料を体に塗る」[死者の棺はあるが槨はない」[飲酒の習慣」[持衰の存在」[真珠、青玉、丹(水銀かベンガラか)を産出」[しょうが、さんしょうなどは食さず」[伊都国は諸国や外交の監視役」[邪馬台国には宮室や楼観は城柵」「南の狗奴國と敵対」などの記載があり、考古学的な成果と合わせて見ていく必要がある。
また、魏志倭人伝の記述の後の時代である、ヤマト(大和)朝廷の時代にどうつながるのかも大切な要素である。下図では九州説と畿内説の二つのパターンに分けて考えてみた。
九州説Aと畿内説Aは、それぞれに「連続」するパターンであるが、九州説Aのように国家が「東遷」するのは考えにくい気もする。しかし「神武の東征」をフィクションと片付けてしまってよいのだろうか。「連続性」を持たせるためだけのフィクションならばもっとわかりやすい話をつくりそうだが。やはり天皇家の出自に関わる重要な内容なのだろう。
(神話と邪馬台国(3)「神武の東征」)
近畿説「大宮殿が発見された纒向遺跡」
今も神体山として信仰をあつめる三輪山のふもとに纒向遺跡(奈良県桜井市)はある。 王の宮殿ともいうべき巨大建物跡や3000個以上の桃の種、小動物、魚の骨が多数発見され注目をあつめている。また土器も多く出土しており北陸、近江、河内、阿波、吉備などからも土器の搬入が確認されている。 このエリアには箸墓、纒向石塚をはじめ大規模な古墳が集中して、都市集落を形成しており、邪馬台国の候補地のひとつであったが、2009年の調査で1つの大型宮殿と3つの建物群が新たにみつかった。
注目すべきはこの4棟の建物が東西方向に方位と軸線をもって整然と整列されており、さらに周囲を柵列で囲われている。遺跡は東部にさらに広がっているようで、魏志倭人伝に記載のある「楼閣」などの発掘が期待されている。また、出土したモモの種を放射性炭素年代測定したところ、西暦135~230年と判明している。ただ注意すべき点としては、纒向といえば『古事記』『日本書紀』に崇神、垂仁、景行の三代にわたって宮が置かれたとの記述があり、初期大和政権の都であった可能性が高いということを考慮しなければならない。
邪馬台国が近畿にあったとすると卑弥呼の存在はどう考えるか。『古事記』『日本書紀』には卑弥呼の記載はない。昼は人が墓を作り、夜は神が作ったと伝えられる箸墓に埋葬されたといわれる倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと)が卑弥呼なのではないかという説もあるようだ。
纒向遺跡の調査を行っている寺沢薫・桜井市纒向学研究センター所長によると、「女王・卑弥呼は、北部九州や吉備を中心とした勢力によって擁立され、奈良・纒向遺跡を首都として国を治めた」という可能性も指摘しており、「畿内VS九州」というという二者択一ではない新たな見解も注目されるところだ。
近畿説の弱点としては、弥生期の鉄製品や絹製品の出土がほとんどないことだろう。
邪馬台国とは何か 吉野ヶ里遺跡と纒向遺跡―石野博信討論集 邪馬台国はどこにあったのか。その解明に欠かせない吉野ヶ里遺跡と纒向遺跡。吉野ヶ里遺跡の大発見当時の森浩一との対談から始まり、二つの遺跡をめぐっておこなわれた高島忠平、水野正好らとの討論 |
魏志倭人伝にある描写をもとにするならば、現時点では唐古・鍵遺跡の方が環濠集落であり、邪馬台国のイメージには近いように思われる。 その他の直近の考古学的成果としては、2010年に奈良県桜井市の桜井茶臼山古墳で三角縁神獣鏡を含む81面の銅鏡が出土した。 この中で注目なのは、正始元年(240年)銘の銅鏡(破片)である。この年代はヒミコの時代と合致し、蟹沢古墳(群馬県高崎市柴崎)から出土した「正始元年」の銘がある三角縁神獣鏡に刻まれた字と形がほぼ一致しているという。 (正始元年は魏に派遣した使節が帰国してきた年で「銅鏡百枚」が下賜されたとある) ここで焦点になってくるのは、これらの三角縁神獣鏡が国内製か中国製なのかという点である。中国製であればヒミコが受け取った銅鏡の可能性があるし、国内製であれば後の時代につくられた銅鏡である可能性が高い。 三角縁神獣鏡は中国で1例も見つかっていないので、国内製である可能性が高い(九州論者の反論)が、断定はできない。(現在では鉛同位体の分析により、青銅の原料の産地を推定できるらしいので、実施が望まれるところだ。)
ここまでわかった! 邪馬台国 (新人物文庫) 邪馬台国はどこだ? 謎を解くカギとなる『魏志』倭人伝の全文・読み下し・現代語訳・注釈・解説を収録。研究の最前線に立つ著者による、畿内説・九州説の徹底検証に加え、全国の比定地を紹介、さらには邪馬台国と卑弥呼の実像など |
九州説「大規模環濠集落は魏志倭人伝の描写にぴったり」
北部九州は吉野ヶ里遺跡や平塚川添遺跡などの環濠集落の遺跡があり、神武の東征神話、さらに漢から贈られた金印が出土していることから、九州説を唱える学者も多い。
天照大御神は卑弥呼である -真説・卑弥呼と邪馬台国- (Shinkosha Selection―日本を識る)
吉野ケ里遺跡や平塚川添遺跡を含む最新の情報・データ、あらゆる古文献・発掘資料などを分析整理し、天照大御神と卑弥呼の活躍する時代を特定。 |
九州説で主張される主な7つの根拠
1倭人伝にある「帯方郡より1万二千里」という記述から、壱岐までは九千里、伊都国までは一万五百里となり、誤差を含めても邪馬台国の位置は九州地方を出ない。2倭人伝の「使訳通ずる所三十国」という記述がり、当時の国は現在の市町村程度のサイズである。遺跡などからも北部九州だけでも30国以上存在したであろう。このことから、倭国は畿内から九州までという広大なものではなく、広くても九州と中国や四国の一部という限定されたエリアにとどまる。
3倭人伝にある「環濠、宮室、楼閣、城柵」を備える吉野ヶ里遺跡や平塚川添遺跡などが見つかっている。
4伊都国の平原遺跡などから女王のものと思われる墓や副葬品が多数出土しており、社会的地位のある太陽信仰をもった巫女らしき女性の出現が伺われる。
5神武の東征は邪馬台国が大和地方に進出した事実を含めて創作した話だ。
6畿内からは銅鐸が多く出土しているが、九州は銅剣の文化圏である。記紀には銅鐸についての記事もなく、ヤマト政権とのつながりが感じられない。
7鉄器の出土が福岡、熊本を中心にしてでるのに対し奈良からはほとんどない。(絹製品に関しては福岡が最多で、近畿ではほぼ見られない)
3世紀に九州から近畿にわたる広大な国家は存在していないというのはそれなりの説得力はあるが、決定打とまではいかない。文字資料がほとんどない時代なので、遺跡から「これが邪馬台国だ」といえる考古学的な物証は少ない。ヒミコがもらったとされる親魏倭王の金印などが考えられるが、移動が可能なので決定づける資料にはならない。
女王がいた「伊都国」日本の起源は伊都国にあり?
そんな中で注目すべきは「伊都国」の存在ではないだろうか。「一大率」という名称の諸国の外交監視役を置いていたとされ、邪馬台国への報告などは頻繁に行われたはずであるから、何らかの痕跡が残っている可能性はある。伊都国(福岡県糸島市)には女王の墓と思われる平原遺跡などがあり、研究の対象としてもっと関心が持たれてもよいエリアではなかろうか。ヒミコは伊都国の出身と主張する学者もおり、邪馬台国とも密接な関係であった伊都国の研究が進むことを祈る。
【上記画像:福岡県平原方形周溝墓出土品(国宝)】:直径46.5cmの内行花文鏡(日本最大の銅鏡)をはじめ、女性の副葬品と思われる、玉類やイヤリング(耳とう)などが発見されている。
上記の平原遺跡の発掘を主導した、考古学者の原田大六氏は、伊都国王墓こそ日本国家の起原、古代最大の銅鏡こそ伊勢神宮のヤタの鏡であり、天皇発祥の地は伊都国であるとの説を発表している。
関連記事:「魏志倭人伝の時代の伊都国」
九州王朝説「倭の五王は九州にあり」
古田武彦氏によって提唱された「九州王朝説」では紀元前から7世紀まで中国と通好した倭国は九州の王朝であるとした。中国の古典(洛陽の近郊「伊闕」の地名について)から「伊都国」の伊は「都(みやこ)に伊(これ)邇(ちかし)」だとして、伊都国に隣接する博多湾岸がに卑弥呼がいたと説いた。中国の「倭の五王」は、通説では日本の天皇家に比定されるが、それらも九州の王であると論じた。「九州王朝説」は否定派も多いが、史実を解き明かそうとする学術的態度は評価されるべきだろう。少なくとも先に挙げた「倭の五王」に関しては、安易なあてはめが多く、再考されるべき事項ではないだろうか。「失われた九州王朝 (1979年) (角川文庫)」
失われた九州王朝 (1979年) (角川文庫)
紀元前から七世紀まで、倭国と呼ばれ中国と通好していたのは、卑弥呼以降も連綿と続いた九州王朝だった。天皇家よりも先に九州王朝が存在していたことを明らかにする。 |
熊本は狗奴国か?それとも邪馬台国か?
弥生時代の鉄器の出土数No.1は熊本である。(2018年現在)鉄器こそが権力の象徴ととらえる学者もおり、邪馬台国に対抗していた「狗奴国」の有力候補地である。
県内最大規模とされる方保田東原遺跡は、面積が35ヘクタール以上あると想定され、吉野ヶ里遺跡に匹敵する大環濠集落があったようだ。
さらに従来の考古学では「稲作文化の及ばない停滞した地域」とされた阿蘇では、鉄の加工(生産ではない)の跡が多くあり、当時の最先端の技術集団がいたと想像される。阿蘇では製鉄のほかに赤色顔料(ベンガラ)の生産が盛んで、ベンガラを輸出して鉄の素材を輸入していたのかもしれない。
「川越哲志氏 弥生時代鉄器総覧 2000年」
また阿蘇のさらに南に位置する球磨(クマ)郡・人吉市エリアには、才園古墳(6世紀:球磨郡あさぎり町)があり、鍍金(金メッキ)した鏡が出土している。(装飾された馬具なども出土)
中国の鏡の研究者である王士倫氏によると、三国志時代(3世紀)に中国の江南地方でつくられたものらしい。(呉の領域)
鍍金鏡(トキンキョウ)は中国でもたいへん貴重なもので、日本では3枚しか出土していない。(一貴山銚子塚古墳:福岡県糸島市、城塚古墳:岐阜県三野)中国で3世紀につくられたものが、中国国内で伝世した後、球磨郡にきたのか、それとも3世紀ごろに球磨郡にやってきて、伝世したのかは不明だが、球磨郡のエリアが狗奴国であった可能性もあり、「魏が倭と結んでいたのに対し、呉は倭の背後にあった狗奴国と結び対抗」という図式も浮かんでくる。
熊本=狗奴国説はかなり有力ではあるが、先入観を取り払えば、邪馬台国があっても不思議はない。(狗奴国の考古学)
邪馬台国は熊本にあった!~「魏志倭人伝」後世改ざん説で見える邪馬台国~
魏志倭人伝を丁寧に読み解き、この曖昧な記述の原因を追究していくと、ある興味深い仮説が浮上してくる……それが「後世改ざん説」である。 |
出雲説「オオクニヌシの国こそが邪馬台国」
古事記の記述は出雲に1/3を費やしており、近年ではオオクニヌシの国譲りが何らかの実話に基づくものだったのではないかと言われている。それと言うのも1980年台から90年台にかけて、大規模な遺跡の発掘が相次いだのだ。荒神谷遺跡からは358本の銅剣、16本の銅矛、加茂岩倉遺跡からは39個の銅鐸が発見された。また鳥取県でも環壕や楼閣があったとされる妻木晩田遺跡(遺跡の面積は156ヘクタールと国内最大級)が見つかっている。ただし一般的には「ヤマタイコクよりも少し前の時代に出雲にも有力な王国があった」というのが一般的な解釈のようだ。とはいえ邪馬台国やヤマト政権を考える上では、出雲周辺地域(山陰地方)を精細に見直す必要がある。
葬られた王朝―古代出雲の謎を解く (新潮文庫)
「古事記」から浮かび上がる天皇家とは異なったもう一つの王家の存在。梅原古代学の集大成。 |
吉備王国こそが邪馬台国
松木武彦氏(考古学者:国立歴史民俗博物館教授)は考古学の分析から、2世紀前の邪馬台国は吉備にあり、それが大和(纏向)に移った可能性がある。特殊器台、楯築墳丘墓の様式(全国の古墳の元祖の可能性)などがそれを示すという。
古代の天皇家は吉備から妃を多く迎えており、その結びつきの強さがうかがえる。寺沢薫氏は「女王・卑弥呼は、北部九州や吉備を中心とした勢力によって擁立され、奈良・纒向遺跡を首都として国を治めた」という可能性も指摘しており、考古学的にみると吉備には邪馬台国に相当する国があり、大和政権の成立に重要な役割を果たしたことは間違いない。
邪馬台国発見のカギは?
近畿、九州、出雲の説をみてきたがどれも決定打にかける。 邪馬台国に近づくためには、「伊都国」「出雲」のさらなる調査、三角縁神獣鏡がいつどこで作られたかの究明、銅鐸文化消滅の謎の解明などが必要かもしれない。伊都国、出雲以外では、魏志倭人伝に邪馬台国との対立が描写される「狗奴国」の存在にも注目したい。「狗奴国」の位置が特定できれば(熊本、愛知説などが有力)邪馬台国の特定がある程度可能になる。(関連:狗奴国の考古学)また宮内庁などが管理する天皇家の歴代の古墳(箸墓など)を再調査できれば、見えてくるものもあるだろう。今後の研究や発掘の成果に期待したい。
九州説、出雲説、吉備説、北陸(越前)あたりに可能性があるのではないかと。
なかでも、山陰や北陸などどちらかというと裏と言われるエリアが当時としては先進地域だった気がしています。
林・藤島遺跡は注目しています。
>寺沢薫・桜井市纒向学研究センター所長
畿内説論者の中でもほぼ中心人物といってよい。
そんな人が九州説にすり寄らなきゃいけないなんて、やっぱり北部九州だったんじゃないのって思っちゃう。
日本らしい八方よしの折衷案だな,,,
「女王・卑弥呼は、北部九州や吉備を中心とした勢力によって擁立され、奈良・纒向遺跡を首都として国を治めた」
あり得るとは思いますが、100年単位の時を経てそうなったんじゃないかなと思っています。
日本古代史には、悲しいかな今なお定説は存在しません。その要因となっているのは、郷土愛からの悪意なき願望です。客観的に魏志倭人伝と記紀を読み比べれば、ほぼ完全に一致する記述が見て取れるはずです。
1 卑弥呼と天照大御神
魏志倭人伝では「卑弥呼の死→男王立ち国乱れる→トヨを立て国治まる」、記紀では「天照大御神が岩戸に隠れる(死す)→高皇産霊神(高木の神)の命により手力男神が岩戸を開ける→天照大御神(高木の神の娘トヨ)が復活統治」と、同じ事柄が記述されているのです。
「卑弥呼=天照大御神」説は、年代が違うと否定されがちですが、日本に暦はなかったのです。その証拠に、古事記に年代が記されていないのに対し、後に編纂された日本書紀には年代が記されています。神武天皇の即位を「辛酉(カノトのトリ)」と記し、あろうことか紀元前660年と解釈され、それを起点に、天皇の御代「元号」により年代を推定しています。神武天皇が縄文時代? 十干・十二支の暦では60年が1周期であるため、辛酉は前600年でも、前540年でも、紀元後であっても構わないにもかかわらず。
一方の大陸の国々は、文字と言語によって歴史を記し、その交易が西洋にまで及んだ際には、西暦と対照できる暦を持つに至った。
こと、暦のみに関して言えば、古代の大陸国は、倭国に比べれば先進国といってよい。
それでは、「卑弥呼=天照大御神」に戻れば、魏志倭人伝に記載された卑弥呼の年代、記述から、天照大御神は西暦239年から西暦
247年までの間、確実に邪馬台国(以下「ヤマト」と記す)」の女王として君臨していたといえる。
さらに年代対比が可能な歴史的事象をみれば、新羅、高句麗が倭寇に侵攻されたことと、神功皇后の三韓征伐がほぼ一致するであろう。倭寇(海賊)が新羅の城を包囲できるものだろうか。間違いなく、倭国の軍隊であろう。神功皇后(仲哀天皇の妃で、天皇の死後は摂政として政務につく)は、新羅の歴史書「三国史記」から、西暦393年ころの史実と認められる。
では、神武天皇の即位年は。上記事象の間。西暦300年、誤差前後30年の中に納まるのではなかろうか。
さて、魏志倭人伝に登場するトヨの名が、記紀には記述されてはいない。それは、全世界共通であるが、歴史書は、最初の統治者は神
からの信託を受け、神につながる系統であることを宣言するものでなければならない。天照大御神とトヨが別人となれば、子がいない卑弥呼すなわち天照大御神をもって系統は途切れる。天照大御神とトヨを同一人物とし、天之忍穂耳命が天照大御神の子であるとする必要があったであろう。記紀から漏れたトヨであるが、皇大神宮(伊勢神宮)内宮に、手力男神(高木の神?)とともに、萬幡豊秋津姫命が祀られているということに、倭人の律儀さを感じるのである。
2 ヤマトの所在、女王の都する所
ヤマトの所在についても、郷土愛に基づく願望を排除し、事実と伝聞とに注意して魏志倭人伝を読めば、自ずと明らかではないか。
先ず、行程については、伊都国までは実際の行程であろうが、伊都国以降は伝聞、且つ虚偽と言えるべきものであろう。
ヤマトが、大陸の使者を女王国の都に招き入れるとしたら、倭人は外交能力が全くないことになる。ヤマトは、大陸の王朝が交替した際に速やかに朝貢を行っていたようである。当時、どのような船を使っていたか興味は尽きないが、生口(奴隷)や麻布などを献上しており、大陸への関心というより危機意識は非常に高かったことがうかがえる。簡単に海を渡っているのである。逆に、大陸からも簡単に侵攻されると考えるのは当然であろう。大陸の使者は、伊都国において一大率が全て対応してと考えてよいと思う。
伊都国以降の行程を無視し、ヤマトについての魏志倭人伝に記述された国名をみるに、すべて九州北部内に収まりそうである。
また、女王の都する所は、記紀にヤマトの国々が相談(天照大御神のお告げを聞く?)する場所として、天の安河原が記述されている。
安川(現在の小石原川)の近辺で、ヤマトは連合王国であって天照大御神が実際の国主でないことを考慮すれば、さほど大きくなく厳重に警護された遺跡となれば、平塚川添環濠遺跡あたりに落ち着くのではないか。
3 神武東遷
神武東遷について、東遷する必要があったのかという疑問点により、東遷を否定する意見を耳にする。
これについては、ヤマトの危機意識の高さゆえに、大和地方に遷都したものといえる。勿論、未開人を征服しながらの戦いではなく、既に大和地方を治めていたヤマト系の勢力の排斥、特に大和の地の支配層の排除を主とした戦いであったことであろう。また、この東遷にあたって、奈良時代の防人に相当する軍事力を、北九州に配備したことは想像に難くない。
ヤマトの所在について、大和地方の他には、出雲の地が挙げられることがある。これは絶対にありえない。出雲は全くの異文化であり、東遷の際、又はそれ以前に征服・殺戮を行ったものであろう。美しい「国譲り」には、殺戮を歴史から抹消し粉飾することばではないか。海彦山彦伝説は、山彦(ヤマト)が海彦(出雲)を放逐もしくは殺戮した史実が伝承されたものと考える。神無月(神有月)の諸行事は、八百万の神々が集う宴の場などではなく、後の大和朝廷が出雲の神の祟り畏れ、出雲の神・人々への謝罪・鎮魂を意図した神事と考えるものである。
魏志倭人伝は距離・旅程・戸数が実際の十倍して書いてあります。当時の魏の敵国の呉をだますためです。実際より遠いと思わせたかったのです。
邪馬台国の位置は、不彌(宇美)から「水行10日陸行1月」ですが、実際は「水行1日陸行3日」です。宝満川を舟で1日下り、筑後川との合流地点(久留米)に着きます。そこから筑後川を徒歩で遡って3日の地点の、浮羽・朝倉・杷木から日田の間に邪馬台国はあったと思います。
詳しくはブログ「漢字で読み解いた出雲神話と国生み」の中国文献のフォルダー内のページをご参照願います。
魏志倭人伝では距離・旅程・島の大きさ・戸数が、実際の10倍して書かれています。この時代の魏の敵国の呉に「倭国が遠い。」と思わせるためです。会稽の真東に呉から来ると、琉球列島と九州の間の海を通って太平洋に出てしまいます。敵をだますためには自国民も騙す策略です。朝鮮半島南部→対馬→壱岐→博多湾を夫々大雑把に50kmとすると、(1里=450mなのに)十倍の1,000里と書いています。島の大きさも十倍してあります。戸数が十倍も、邪馬台国7万戸は(この頃は大家族制なので)人口200万に相当します。当時の日本の総人口が、200~400万です。奴国や投馬國などの個数を合わせると、百余国の内の30余国で日本全体よりも多い人口になってしまいます。十倍してあるとしか思えません。
邪馬台国の位置は不彌(宇美)から「水行10日陸行1月」の記述ですが、実際は「水行1日陸行3日」です。宝満川を1日舟で下ると、筑後川との合流地点(久留米)に着きます。そこから徒歩で筑後川を遡ると浮羽・朝倉・杷木から日田の間に邪馬台国はあったと考えられます。魏志倭人伝の距離・旅程・戸数が十倍してあることに納得がいけば、邪馬台国の位置は容易に推定できます。詳しくはブログを参照してください。
数字が10倍されているというのは素晴らしい着眼点ですね。
朝倉やうきは市はよく行くのですが、途中の水城を見るたびに、この先に邪馬台国があったのではないかなという思いがありました。
ただ、久留米から朝倉だと3日はかからないかなと思いますが、そのあたりは誤差だったり、きりの良い数字だったりしますね。
私は日田あたりかなとか考えてもいましたが、恵蘇八幡宮あたりは可能性を感じますね。
卑弥呼は8人くらい居て和歌山の卑弥呼が1番人気があったようです。
だから卑弥呼は和歌山に居て邪馬台国は和歌山にあった。と言う記述を発見した
伊都国と言われる所は今で言う伊都郡では。朝鮮半島からの渡来者のたの外交監視役を置いていたとのこと。古墳時代初期の大規模水田開発あり。
大谷古墳時、鳴滝遺跡で須恵器大量に馬ちゅう、馬カブト見つかってます。
和歌山も一度行ってみたいエリアです。
8人ですか、、、
福岡には八女という地名があります。
「山中に女神あり。その名を八女津媛といい常に山中におる」
というのが日本書紀に残っているようですが。
また、宗像大社の神事で「八女(やおとめ)神事 」というのがあるそうです。
「八女は 誰か八女そ 天に座す 天若御子(あめわかみこの)の 神の八女」
邪馬台国は大分で決まりです。魏志倭人伝をしっかり読めばわかります。
http://yamadajiro15.wp.xdomain.jp/index.html
末廬国が門司であるという考察は大変参考になりました。
ありがとうございます。発音を少し勉強したいと思いました。
門司から下関を抜けていくのはかなり難しかったという話を聞いたことがあります。
また、壱岐から門司の行程が少し不自然になるかなと感じました。
このあたりも少し調べたいと思いました。
邪馬台国と大和朝廷は間接的に関係があったと思います。
記紀神話にも魏志に曰く倭の女王がとあるから邪馬台国が無かったという学者は間違っていると思います。
邪馬台国の存在が江戸時代まで謎だったのは不思議である。
幻の国家なら文献に残らないはずだから僕は存在したと思います。
僕の仮説では邪馬台国は西日本の何処かに存在したと思います。
何故なら古代日本史は西日本以外の歴史が少ないからである。
ここ書き込んだ人の出身地が表示される仕様だったら面白そう
不弥国からの水行は川のぼり、川くだりですね。
結局、邪馬台国は北部九州です。
長浜浩明氏の邪馬台国論について倭人さんの見解が聞きたいです。
ざっくりいうと
邪馬台国は筑紫平野近辺で、狗奴国はその南のクマモンの国
大和王権は神武が宮崎から奈良に東征(BC70あたりに東征完了し即位)して作り、垂仁あたりの代で女王国連合を併呑した
みたいな感じだったと思います。
詳しくは存じ上げないのですが、「邪馬台国は、大和朝廷とはまったく関係がない別の国」という説には納得します。神功皇后を卑弥呼に見立てて物語を創作しているような節もありますね。
魏志倭人伝に、邪馬台国の民は、夏も冬も生野菜を食すとあります。当時、ビニルハウスやボイラーなどの暖房施設も無い状況で、冬でも生野菜が収穫できたとしたら、南九州しか考えられません。つまり邪馬台国は温暖な宮崎平野にあったんですよ。また、魏志倭人伝に、邪馬台国の位置は、中国の都市である会稽から東側に位置するとあることからも、緯度を見ても、丁度南九州辺りになります。あと、皆さんは卑弥呼をヒミコと発音してますけど、実は当時、ヒムカと発音してたんだと思います。だとしたら、ズバリ、日向国ですね。卑弥呼が亡くなり、国内が乱れた後、トヨという若い女王の時、平和が訪れますが、このトヨも豊の国、つまり大分県や北九州地域の豊州(豊前、豊後)を表します。ですから、邪馬台国の舞台は少なくとも九州説が有力なんです。なんちゃって!
邪馬台国が福井県だと確定しましたね。
>>9の八岐大蛇さんのホームページを拝見しましたが、九州や畿内は国が成立する為の条件がありません。大勢の人間を養うほどの食料生産力がない。故に邪馬台国があったとすれば福井県以外にあり得ません。
これはどんな物的証拠よりも説得力があり尚且つ否定できないものです。いくら証拠があろうが、そこに大勢の人間が暮らせた証拠があるの?って言われてありません、となったら意味ないですからね。
まあこれでなぜ彼処まで具体的に場所を絞り混んでおきながら数十年に渡って決定的な証拠を見つけらないのか、という理由がわかりましたね。最初から見当違いな場所を探しているのですから。そりゃ見つかるわけない。
越(高志)の国ですね。
遺跡としては林・藤島遺跡くらいしか知りませんが、ヒスイや鉄などの加工の技術が高かったのでしょうか。
当時の日本海側は今日から想像できないほど栄えていたんでしょうね。
福井平野は低地が多い印象で、弥生時代は湿地帯だったのでは?と思うのですが、そのあたりはいかがお考えでしょうか。
適度な湿地の方が当時の稲作には適していたのでしょうが、かなり大きい淡水の沼などが無数にあったと聞いたことがあります。
九州だと朝倉周辺から佐賀にかけての筑後平野と部分的につながる福岡平野も含めるとかなりの広さになるかと思うのですが、「国が成立する為の条件」にはなりませんか?
条件の定義(人口?)などがあればお教えください。
興味があります。
大変学習にも成りました。
魏志倭人伝だけを見れば邪馬台国は熊本。
畿内やと最初に陸行く意味がなく、まっすぐ海進めよってなる。
糸島行くなら唐津寄る必要性ゼロだし、直で糸島のほうが早いし安全で超不自然。
唐津から糸島って今でも岩むき出しの断崖絶壁の道なのよあそこ。
誰が言い出したの?ってレベルで歩ける場所じゃなく超不自然。
水行20日を何故片道と考えるのか?
当時の日本に何千人もの従者とお土産品やら動物やら連れて来てるのに一つの港にそんなに何百艘も船あるか?
何往復かしての20日なんじゃね。
定説言われてるの無視したら、伊万里(末羅)→武雄(伊都)→白石(奴)→水行20日→玉名→水行10日→熊本→山都としたら最初に陸行する必然性もあり、
距離も、方角もすべてが魏志倭人伝に合致するのに。
なんで今の地形で考えるの?
地質学的に当時の水位は、今よりずっと上になったことは判明している。
断崖絶壁の部分は、水位は上がれば、接岸できるちょうどいい高さになる可能性大じゃない?
倭人伝行路記事
動詞(行く)がついているのが、女王国への行路上にある行程。
動詞がなく、至のみの行程は、直接女王国にゆく行程ではなく、現在の地点から方角、距離を述べた、傍線行程。
最後フミ国から女王国は至のみだが、国が隣接しており、工程ゼロであることを示す。
奴国、投馬国は傍線行程のため女王国への行程に含まれない。すでに詳細行程文中にもかかわらず投馬国の突如として現れる長大行程の謎は、傍線行程ゆえ。
乍南乍東の乍は、◯◯するかとおもえばたちまち◯◯するの意味で、従って韓半島内陸行である。
陸路を経て到達した倭地の国が狗邪韓国。
水行では場所により西にも行くことになり、また歴韓国にならない。
陸行1月の大半は韓半島陸行。
したがって博多湾岸に邪馬壹国あり。
一大国、対海国の半周を含めて、全行程12000里になる。
魏志において臺とは中央官庁のある場所。天子もそこにいる。
邪馬臺国は邪馬なる天子の意味になりえる。
倭人伝は魏にとり夷蛮伝の白眉をなす輝かしい事跡であり、そこに夷蛮なる天子を公言するかのごとき大義名分上の錯雑を起こしうる邪馬臺国の表記は、ありえない。
したがって、邪馬壹国の表記がただしい。
五十年前の古田武彦氏のこうした論証(古田氏以外の論も含んで書いてあるかもしれませんが)に、有効な反論を未だに見ないような気がします。
10月に出版した『九州の邪馬台国vs纏向(まきむく)の騎馬民族』という本で2つのテーマに挑戦し、邪馬台国の謎についてほぼ全容を解き明かしたつもりです。参考にして下さい。
2つのテーマとは邪馬台国は九州だったと言う『九州説の証明』。それに3世紀の日本に馬が来たと言う『新しい騎馬民族説の提案』です。両テーマとも極めて論理的に究明されています。概要は次のようになります。
邪馬台国論争、古代史最大のこの論争はなぜ果てしなく続いてきたのでしょうか。 それはこの時代が古墳時代の幕開けの時であり、奈良に誕生した前方後円墳が急速に日本各地に拡がったと言う出来事に目が向けられてこなかったからです。 前方後円墳の急速な拡がり、それは交通手段のイノベーションなしでは起り得ません。 邪馬台国の時代の3世紀に馬に乗る人達・騎馬民族が来たのです。
日本への馬の到来を5世紀とするこれまでの定説はほぼ同時に日本各地に牧が拡がるという事象を説明できません。牧があったと言うことは日本各地に馬に乗ることのできる人達がいたと言うことになります。騎乗はそれだけでも高度な技術ですが、繁殖、飼育、調教などの技術も必要です。当初、小林行雄氏がこの説を考えた時は200年かかるとしていたのです。それが最近になって馬の到来とほぼ同時に日本中に拡がっていたことが分かって来ました。定説に大きな疑問符がついたのです。
得られたストーリーの概要は次のようになります。
今から1800年前、中国では400年続いた漢王朝が弱体化し184年の黄巾の乱の発生でその衰退が一気に進んでいた。そして中国東北部ではいくつもの騎馬民族が活躍する中、扶余は高句麗などの台頭で圧迫され、多くの民が逃れ朝鮮半島を南下した。この頃、中国東北部を支配していたのは漢の官僚、公孫氏だった。扶余は公孫氏の配下となり娘を嫁にもらい親密な関係となった。しかし、公孫氏は扶余の扱いに困り、さらに多くの民が朝鮮半島を南下するよう促した。
扶余は朝鮮半島に留まらず直接北部九州への上陸を図った。しかし、そこには30あまりの国々があり卑弥呼を女王として共立して戦い扶余は撃退された。扶余は瀬戸内海を東に逃れ吉備に上陸し定住化を図って楯築墳丘墓を造るが、その時、倭人との融合化のため殉葬に代わって埴輪のもととなった特殊器台を作ったりもした。しかし、北の出雲と対立し、更に東に向かい奈良の纏向に入りそこで前方後円墳を造り勢力を蓄えた。前方後円墳は北朝鮮と中国の国境に存在する前方後円墳型積石塚と盛土型の日本の墳墓を参考に考案されたものである。
一方、北部九州にはその後も扶余が次々に上陸した。窮した卑弥呼は238年公孫氏に助けを求め、難升米を使いとして送った。しかし、その時、公孫氏は存亡の危機にあった。220年漢が滅び、魏、呉、蜀の3国が並び立ち混乱はますますひどくなっていた。234年、蜀の諸葛亮の死で余裕のできた魏は司馬懿に予てより目の敵であった公孫氏討伐を命じた。238年8月両者は遼東半島の付根にある遼隧で対峙し、公孫氏は滅亡し公孫恭一人が司馬懿によって許され生残った。
この時、魏の明帝は公孫氏の南への逃亡を防ぐため帯方郡に太守を送っていた。難升米が魏の帯方郡太守と会ったのは公孫氏滅亡より少し早い238年6月だった。事の重大さを知った太守は彼を洛陽に送り明帝に朝見させることにした。明帝は公孫氏の背後から突然現われた卑弥呼の使いに大いに喜び、破格の待遇をして銅鏡など多くの贈り物を下賜すると共に扶余との攻防に鑑み卑弥呼に倭王の称号と金印を与えた。
魏と女王国の良好な関係は数年続き、魏から倭国調査のための使節が訪れ、互いに行き来した。しかし、危機は数年後にやって来た。公孫氏でただ一人生き残った公孫恭が遼隧の戦い後1年遅れて援軍としてやってきた呉軍に助けられ扶余を頼って纏向にやってきたのだ。彼は纏向で扶余に担がれ王となった。彼は卑弥呼に倭王の地位を求め、予てより女王国と敵対していた狗奴国に金メッキの呉鏡(鎏金獣帯鏡)を与え南から攻めさせ扶余と共に挟み撃ちにした。
いよいよ窮した卑弥呼は248年再度魏に助けを求めた。魏は扶余の背後に公孫恭がいて、さらにその背後に呉がいることを知ると大いに驚き武官の張政に直接黄幢を持たせ倭国に送った。しかし、張政が倭国に着いたとき卑弥呼はすでに死んでいた。扶余は彼女のために大きな墳墓を造り、彼らの風習であった殉葬のやり方で弔った。そして公孫恭は倭王になろうとした。しかし、大きな反乱が起き卑弥呼の親戚の13歳の台与を代わりに立てた。一応の平穏が保たれると怒れる張政を丁寧に魏に送り返した。
邪馬台国を征圧した公孫氏は266年、魏に替わって晋が誕生すると台与の使いと共に朝貢し爵位を得て倭王となった。朝貢の時、公孫氏の使節は邪馬台国から来たと告げ、そこに至るには“水行10日陸行1月”とかかると言った。三国志の著者は、この纏向からの旅程を邪馬台国に至る旅程として魏志倭人伝に記載してしまった。
この時、倭王となった公孫氏はヤマト王権となった。そして、その地位を確実なものとするため女王国の風習を全て見習った。銅鐸を廃止し銅鏡を使った祭祀を取入れた。そして日本各地に前方後円墳を広め、連れてきた呉の鏡師・陳氏に三角縁神獣鏡を作らせて各地の有力者に配った。
三国志の著者・陳寿は元々魏に滅ぼされた蜀の人だが268年から晋に仕え、初代皇帝司馬炎の下で三国志を書き始めた。司馬炎は司馬懿の孫であり、三国志は晋誕生に一番功績のあった司馬懿のために書かれた史書である。司馬懿が公孫恭を助けたことは彼の失敗となっていた。そのため魏志倭人伝の中に公孫氏や扶余のことがないのは当然であり、そのことと勘違いで書かれた『水行10日陸行1月』が魏志倭人伝の解釈を難しいものし、邪馬台国論争を果てしなく続くものにしてしまった。
コメントありがとうございます。説を拝見した当初「公孫氏が倭王となった」というのは信じがたいと思いましたが、魏志倭人伝に書かれていない史実を垣間見た気がして、新しい視点を与えて頂いたことに感謝いたします。
私は、陸軍中野学校の平和の前提の言語能力を見習い(私は中野学校の偏差値以下)、 ソ連の崩壊時に、苦労して朝鮮語(韓国語)、ロシア語(東欧モスクワ方言)を、習得しました(中級の上=上級の下)。
卑弥呼は、朝鮮にも(卯=ウサギ顔の民の国)にも、絶大な影響力が有ったようです。(ヒミ、ヒム)。
卑弥呼。
ひみ_こ。
黄泉の国(黄河文明圏)から測量観測をすると、卯=ウサギ顔の人種の国=朝鮮半島、沿海州では、『力(ちから)』をヒミ(ヒム) と言う。
富山県の氷見市(ヒミ)?
金印の出土した九州は、税関や入国審査の地ではないでしょうか?
朝鮮半島からのボートピープルの、発動機(エンジン)無しの漂着海岸は、島根県。富山県、新潟県、津軽海峡。
風水(干支=「黄泉の国(黄河文明圏)の測量技術」)。
エミシ(縄文人の直系で人種=蝦夷=辰=龍=アゴが細いハート型土偶=肉が嫌いで魚食の生態=和人)
の、私なので解読に成功。
先祖代々が交尾をした痕跡が、動物や鳥類に共通の交尾の相手。
体系的にも人相的にも種類なのです(日本大学獣医学科の過去の私)。
私が先祖からもらったダウジングロッド(ペニス)は、雑種ではない私の人種ゆえ高性能です。
それは、縄文血族のみに反応する、縄文血族を判断する能力に加え、先祖代々交尾をした人相が自分と同じ先祖の顔。
ダウジングロッドが、干支=風水=黄泉の国(黄河文明圏)から測量観測をした方角と、確定的に一致。
卑弥呼のイレズミ。
当時は、プラカードや、ビブレ?(スポーツのチョッキランニングシャツ)の
テクノロジーがないので、
イレズミなのでしょう。
追記。
和人(大和民族)は、弥生民族やアイヌ民族と先祖代々にわたり別な種類に、動物や鳥類と同様に、別な種類と交尾をしていません。
顔偏差値の確定データを分析すると。
和人(大和民族)の先祖には、アイヌも弥生も基本的に居ません(天皇家ゆかりの地を除き混血を可能な限り避けてきた/顔偏差値)。
和人の先祖には、アイヌ(黒髪族)も、弥生民族(いざなぎ=クメール=シュメール=黒髪族=天皇家)も、居ません。
和人が美を感じる全てが、縄文血族と邪馬台国の卑弥呼の顔偏差値である。
異種には感受できないのである。
白人には、日本の東西の顔の違いも、同じ顔。
白人には、中国、日本、朝鮮も同じ顔。
邪馬台国の卑弥呼は、女性。
母国であり、祖国。
これは、縄文血族の先祖であるイザナミ(女神=和=大和=和み)。
イザナミには、普通に私たちや英霊などの男性もいるが、天皇家の「いざなぎ」が男系なので、女系の縄文血族を女神敬神崇祖(けいしんすうそ)でも國體(こくたい)。
実際、昔は、女性が家長であった(奈良? 平安?)。
邪馬台国は、在来人種(イザナミ=縄文血族)だよ。
黄泉の国(黄河文明圏)にも、信用があるのは、動物的な真実(黄泉の国(黄河文明圏)も縄文血族/アイヌ民族顔は0人)。
顔偏差値も弥生民族やアイヌ民族ではない、縄文血族から見た、動物として先祖が交尾をしてきた人相が、心も同じ縄文血族の教育なき平和能力であります。
黒髪の話ですが、黒髪は、アフリカのメラニン色素です。
ア●ヌ民族=旧土人(鎖国時代のアフリカ系奴隷の外来人種のみの雑種=河童顔+ゴリラ顔/全員がアムール川上流の寅顔(猫人相)。
天皇家= 弥生(いざなぎ =< 東西アジアの古代クメール =< イラクの古代シュメール)。 アフリカの隣。
日本のおしゃれ(お洒落) って、何色の髪色でしょうか?
遺伝子の記憶です。
栗黒色や、
穢多(漢字は当て字、エータ=Это、大陸の縄文=相生=大和民族)に共通の茶髪系ですよ。
瞳の光彩の色ですよ。
メラニンがアフリカと違うのです。
南米のミイラも、和人顔のインディオが多かった時代と共通の色ですよ。
鼻の形と高さもです。
浮世絵の鼻と同じ。
東欧の亥鼻と混血の、アフリカ鼻(ア●ヌ)ではありません。
楼蘭帝国も、すんごい茶髪。
縄文血族=邪馬台国も、原宿ほどひどくないですが。
穢多(漢字は当て字、エータ=Это、大陸の縄文=相生=大和民族)に色系ですよ。
縄文同士(イザナミ共通)は、私から見て、日本の東西、朝鮮系、中国(黄泉の国(黄河文明圏)の末裔の人種=今は希少)、美男美女の顔偏差値だらけでもある。
顔偏差値の高さは、先祖達が交尾をした痕跡の現代の子孫たちの遺伝子の記憶の「心/交尾をした痕跡」です。
いざなぎ(弥生民族)は、顔偏差値が私の人種からは低いんですよ。
私は、エミシなので、西日本でも、異性にモテました。
友人にひがまれたけど、共通人種の縄文血族の自然現象だとすぐに気がつきました(イザナミ)。
弥生民族には弥生が美男美女のはずです。
邪馬台国は、縄文血族(黄泉の国(黄河文明圏)、日本の辰巳、朝鮮、沿海州)。
辰巳とは、干支の辰巳。
黄泉の国(黄河文明圏)で発明された風水(測量技術)で、
黄泉の国(黄河文明圏)から測量観測をすると、縄文時代の当時のその方角の国の、先住民族と言うよりは在来人種(国に主たち)の人相を、説明した距離感が、現代の光波測距機に劣らない、どれだけ遠い国の方角かが解るのが干支の動物に例えられた、干支12支の人相である。
私は、エミシ(辰=龍の方角の縄文人=東日本のハート型土偶の人種で縄文時代も現代もラーメンどんぶりのギョロ目の逆3角形顔で
龍に例えられたようにナヨナヨひょろひょろした人種=エビス)
これは、辰巳の辰(エミシ)の人種は、昔も今も同じである。
私が人種なので、雑種と違い、同じ縄文血族に鋭敏なので、数千年前の黄泉の国(黄河文明圏)の縄文血族の心を、数千年の時空を越えて、解読に成功したのです。
干支の全ての人相と日本とユーラシア大陸が説明でき、古代よりも古い縄文時代も現代も、その国の先住民族である在来人種は、変わっていないことも、黄泉の国(黄河文明圏)の測量技術者の説明は、現代でも全く同じ人相と、その方角の人種の国は、紛争を予防する、風水の能力であります。
魏蜀呉の遥か前の黄泉の国(黄河文明圏)の時代の技術である、紛争を予防する技術が、
風水(測量技術=西洋人は紀元前の3世紀中頃のエジプト人のエラトステネス。
邪馬台国と黄泉の国(黄河文明圏)のつながりは、帯広市や北海道の他の地域の勾玉のように、皇紀よりも桁違いに古いんですけど。。。。
邪馬台国(高台=イザナミ(和=大和)=縄文の高台の栄巣本能)は、いざなぎ(弥生民族)ではない。
邪馬台国は、黒髪ではない( あとで説明)。
黄泉の国(黄河文明圏)の風水はもっと古い、縄文時代。
当時、北海道をも測量しています。
北緯42°911901N 千歳市から日高山脈を越えて帯広市の水準点(石王)と真南に3000年前の古墳[今は壊されたが測量用の航空写真が国土地理院にて公開と販売、釧路地方の音別の築山(標識)。
]
(多数の証拠があるが、いざなぎ弥生民族、ソ連、西洋人、ア●ヌにより、人目につかないようにされているが私が戦争予防の風水の志(こころざ)しの魂を同じ縄文血族として、皆さんに公言)。
三角縁神獣鏡の、原型も風水の登場人種です。
龍は日本の東国に多い、1945年以前からの江戸時代から寺の過去帳や士農工商の身分があった在来人種=先住民族)=縄文血族=イザナミ=東国の場合はエミシ。
西日本と別な種類。
西日本は巳=蛇顔=ウルトラマン顔。
私が独断で、エミシの黄泉の国(黄河文明圏)と同じ感受性で、黄泉の国(黄河文明圏)の人相を干支に例えると、五黄 中宮 は、魚の「鯰顔(ナマズ顔/キャットフィッシュ)。
邪馬台国の卑弥呼は、女性です。
現代で言う日本人妻(イザナミ=縄文血族=昔から美の代名詞で厳しい神=親)。
天皇家の先祖の「いざなぎ」は、現代で言う弥生民族の在日一世です。
弥生民族は、蘇我入鹿の暗殺など、残酷に外来種にしかできない行動です。
平和に敏感肌な魏蜀呉の時代、天皇家の先祖の「いざなぎ=弥生民族」は、イザナミと黄泉の国(黄河文明圏)から国際指名手配されてもいました。
天皇家の先祖が、命拾いをした、和歌山県の熊野本宮大社でも、主祭神がスサノオ(在日二世)なのに、熊野本宮大社の元々の神(始めから存在した神=第1殿=イザナミ(女神)) である。
在来人種=縄文血族=イザナミ=和==大和 であります。
「和み」も同じ種類(人種)なので自然現象であります。
邪馬台国は、前述のとおり、高台(縄文血族である在来人種の栄巣本能)。
縄文遺跡は、北海道でも、本州でも、高台です。
私は九州と四国の縄文の調査をしていませんが、、、、。
魏の国も縄文遺跡の人種です。
黄泉の国(黄河文明圏)=縄文遺跡です。
縄文人の顔偏差値と人相は、和人顔(縄文人の顔)です。
嘘本が多く、アイヌ民族を縄文人だと嘘を宣伝している悪意の侵略目的の書籍が多いですが、
縄文人の人相は、縄文遺跡の国の在来人種です。
魏の国(黄泉の国(黄河文明圏))、卯=朝鮮半島、日本(辰巳)。
アイヌ民族は、寅顔(猫人相=アムール川上流=表鬼門の人種=縄文圏外)。
ちゃぶ台をひっくり返すような話ですが、弥生民族は、弥生民族(天皇家の先祖)ではない、縄文民族(イザナミ=英霊も)。
訂正 (2019年10月17日 at 9:21 PM)
ちゃぶ台をひっくり返すような話ですが、邪馬台国は、弥生民族(天皇家の先祖)ではない、縄文民族(魏=黄泉の国(黄河文明圏)=和人=縄文=イザナミ=英霊も)。
「三種の神器」の鏡。
黄泉の国(黄河文明圏)の縄文血族が、日本の縄文血族(イザナミ)に、外来種からの侵略防衛の道具として、外来種に「顔=顔偏差値=外来種」を自覚させて、革命を予防させて平和を維持させる、縄文時代の当時の最新のテクノロジーの品である鏡。
現代でも、エミシの私には、弥生民族はあまり性の対象になら無い、別な種類の特徴である、交尾の対象外=先祖が弥生民族と交尾をした痕跡がない。
大和民族の多くは、弥生民族よりも、縄文血族が好みの異性であると思います(東北のコケシ顔)。
エミシの私には、アイヌ民族は、完全に別な種類(交尾の対象外=先祖が完全に異なる)。
日本の弥生民族の「埴輪(はにわ)」。
黄泉の国(黄河文明圏)の、日本の縄文時代の兵馬俑(へいばよう)からしても、テクノロジーに雲泥の差があり、「いざなぎ=弥生民族=古代クメール=天皇家の先祖」は、紀元前から、中国から嫌われ続けて皇紀2670年である。
北海道の縄文遺跡からの出土品の和人固有のテクノロジーである勾玉は、新しい勾玉でも、天皇家の皇紀よりも余裕で古い3000年以上も前の出土品です。
ジャパン(JAPAN、うるし、漆器)を意味する漆(うるし)も。
重要ポイントは、黄泉の国(黄河文明圏)のエリアは、縄文人が在来人種である。
この縄文血族フェロモンが、国を越えた信頼感の本能である。
魏、蜀、呉。
弥生民族の一部は、呉の難民かもしれないが、わずかな人数で、民族には影響無いレベルであろう(弥生民族に同化)。
外来種は、縄文民族に同化をせず、権力を欲しがる(動植物に共通の外来種の侵略と乱)。
魏の国に信頼されるのは、在来人種=縄文血族=縄文民族=イザナミ。
縄文人=縄文遺跡の人種=縄文血族の仲良し縄文人種である。
人類も動物である。
獣医学的にも、別な種類と仲が悪い(黄泉の国(黄河文明圏)と「いざなぎ[弥生民族=天皇=天照、スサノオ)」。
獣医学的にも、同じ先祖=同じ種類=同じ縄文血族 (先祖が共通=交尾=恋愛対象の顔=縄文人から見た顔偏差値)。
黄泉の国(黄河文明圏)とイザナミ(縄文共通=和=大和)。
縄文遺跡は、日本(西日本、北海道を含む東日本)、沿海州、朝鮮半島、黄泉の国(黄河文明圏)である。
アイヌ民族は寅顔(猫人相=縄文圏外)共通で、不思議なことに、卯=ウサギ顔が存在せず0人。
弥生民族は外来種であり、縄文民族(大和=和=縄文共通先祖)にあらず。
弥生民族は、いざなぎ(天皇の先祖=天照など)。
東京の文京区?
縄文遺跡は、高台です。
邪馬台国の台(高台=縄文=イザナミ=在来人種の栄巣本能)。
高校は、単身で、島根県松江市の古代出雲(松江市の南東部)の、神魂神社のエリア(縄文=イザナミ)の、淞南学園(松江日大)に行きました。
校門の前に、縄文遺跡の資料館があり、「風土記の丘」資料館。
縄文遺跡は、西日本(西国=干支の巳=蛇顔=ウルトラマンっぽい目元)。
黄泉の国(黄河文明圏)から、北を子(ネズミ)として、12分割方角。
風土記の丘の背後にも高台の高原地区。
縄文。
台 =高台=だと思います=縄文血族=天皇の弥生ではない説。
邪馬台国でしょ?
帯広市の縄文遺跡も、広大な高台が、ずぅーーーと、多数の縄文遺跡群です。
縄文血族の栄巣本能が高台。
邪馬台国の台は、帯広市でも、釧路市米町(昔からの和人の栄巣本能は高台、幕別町の役場も、広尾町の和人の町も、縄文遺跡と同じく、在来人種の栄巣本能で、台(高台)のみです。
御参考に。
黄泉の国(黄河文明圏)の時代でも、令和の現代でも、心は、動物の本能です。
弥生(天皇=クメール=イラクのシュメール)は、中国(黄泉の国(黄河文明圏))に嫌われて2670年です。
令和の現代でも、縄文血族の黄泉の国(黄河文明圏)と弥生は、中国には先祖が異なる別な種類で外来種を避ける動物的な自然界です。
縄文遺跡の勾玉も、北海道は新しい勾玉でも3000年以上も古いんですけど。。。。
天皇の先祖(シュメール→東南アジアのクメール→稲作=弥生=いざなぎ=天照やスサノオ)が卑弥呼の説は、無理があります。
黄泉の国(黄河文明圏)は、イザナミ(日本の縄文血族/黄泉の国(黄河文明圏)から辰巳の方角)と、仲良しですが、縄文血族の動物的な現象です。
いざなぎ(天皇家の先祖=弥生)は、黄泉の国(黄河文明圏)とイザナミから国際指名手配されても居ました(九州の洞窟にサダムフセイン大統領のように潜伏)。 別な種類である弥生は外来種であり、黄泉の国(黄河文明圏)からもイザナミからも、現代で言う不法滞在の異民族でもありました。
魏の国は、同じ縄文血族と仲良しなのが、獣医学的にも動物の行動ですよ。
私は、北海道の帯広市で、人種も東国の廃藩置県の士族だらけの縄文です。
和人(エミシ=エビス=性から交尾の適合種を分類しても先住民族に必須のO型血液型だらけである鎖国を経た縄文血族、アイヌではない)。
帯広市の縄文遺跡だって、北海道の各地の縄文遺跡だって、皇紀よりも余裕で古い遺跡だらけで、出土品は、和人固有のテクノロジーの品々です。
勾玉も、皇紀よりも余裕で古い年代ばっかりです(縄文時代の黄泉の国(黄河文明圏)へ輸出。
「北海道の縄文遺跡と、江戸時代から普通にある和人の町は、コタンが絶体に無い『高台のみ』」ですよ。
アイヌコタンは、差別もない樹海で未開の北海道でも、全てが洪水氾濫危険水域のみです(水虎)。
北海道が、青森県の三内円山遺跡のように、邪馬台国かもしれない可能性もあります。
20日は、北前舟の北海道から九州への日数と近い。
あなたの稚拙(説)、こじつけがすぎる
到と至るの 意味の違いを考える必要がある、 到は出発地点から到着地点まで 船か歩いて行けると ころである(帯方郡から拘邪韓国)、 末盧国から伊都国。 他の国は 至で 船 又は 歩いてのみでの至るであり、 伊都国より 奴国は 陸行で, 舟では 行けないのである。
亦 不彌国から投馬国、 投馬国から邪馬台国にも 行っていなので これらの国は 帯方郡からの
出発で 投馬国(水行20日)、 帯方郡から 邪馬台国(水行10日、陸行1ケ月/船に乗っている日は 10日、陸に上がっている日(食料調達、休憩、暴風での避難等)は20日で女王国の都 伊都国に 至
となっている。
私は九州説で もし投馬国から邪馬台国まで行けたなら いたるの文字は 到になっている はずである。 到と至るの違いを考えて 読み解くと 面白いとおもいます。
ニギハヤヒとは大物主ノ神のことです。出雲出身の神様です。
「日本書紀」によれば神武東征の前にすでに大和と河内の境の生駒山に降臨していた天孫族ニギハヤヒですが、三輪山の大物主大神(出雲の大国主命)とは全く別人ですよ。親戚ですが( ^)o(^ )
謡曲「三輪」にある 「思えば伊勢と三輪の神、一体分身の御事 いまさら何をいわくらや! 」これは同一人物という意味ではなく、二人は日本建国の立役者だという意味です(^_-)-☆。
ニギハヤヒは「王年代紀」(『宋史』に記載)の第19代(奴国)王天照大神尊で、107年に後漢に朝貢した帥升(正しくは師升)らのクーデターで殺害された先代の素戔嗚尊の弟と推理しました。ニギハヤヒは吉備を平定して旧奴国を再興した始祖王として楯築王墓に葬られていることを発見しました。実は楯築神社の御神体の亀石はニギハヤヒの顔でした。亀石は人面蛇体となっており、これは中国の神話の天皇「伏義」と同一だということから分かります。つまりヤマトの大王が天皇と呼称される理由が発見されたわけです。「魏略」にある倭人は太伯の後という記述を裏付けるものです。つまり太伯は周の先王の長男で、周は殷(商)によって滅ぼされた中国最初の夏王朝の流れの姫氏です。夏王朝の始祖王「禹」は伝説の天皇「伏義」の末裔です。脳科学者中田力さんによれば原始夏人のY染色体ハプロタイプO1aだそうです(「日本古代史を科学する」PHP新書)。もしもこの伝承が正しければ天皇陛下も同じハプロタイプということになります。畏れ多くて検査できませんが、皇族の男系男子の方を調べると伝承の真偽が分かりますよ(^_-)-☆
でも、紀元前473年春秋の呉が滅んで、江南から逃亡した呉王族であって、初代奴国王の天御中主が半島南部を経由して福岡の早良平野にたどり着きましたが、その後男系で奴国大王位が継承されたのかは確証がないです。でももしも違っていても今の天皇陛下は第17代王伊弉諾尊の子ニギハヤヒの末裔であることは間違いないと思います。大物主(大国主)は同じく伊弉諾尊の子スサノヲの直系(孫か曽孫)で「魏志倭人伝」に登場する狗古智卑狗(久々遅彦)のことですよ。
アマテラス女神は「日本書紀」が創作した偽の皇祖神であって、持統天皇が天武天皇の優秀な皇子たちを排除して皇位を奪って孫の文武天皇を即位させたことの正統性を主張するために、(真)天照大神ニギハヤヒを女神にすり替えたのです。「日本書紀」編纂時の権力者藤原不比等は物部氏による日本建国の真相を隠ぺいするためにニギハヤヒを祖とする物部氏が吉備から河内・大和に遷ってきたことも隠しました。
「日本書紀」に沿った内容の神社伝承などは藤原氏におもねったもので、同一神の名前をいくつも変えて粉飾していますので、ほとんど信ぴょう性はないと思います。しかし平安時代くらいまで多くの人は真相を知っていた模様です。最初の謡曲「三輪」がいつ頃成立したか不明ですが、もしも基になるものが平安時代にあったのであれば、藤原氏におもねったふりして真相を暴露しようとする内容とも取れますよ(^_-)-☆
最近の研究で万葉集の真の目的も「日本書紀」のウソを暴露するためであったことを、研究家の渡辺康則さんが精密に論証しています。古代史人気作家の関祐二さんが最初に「日本書紀」のトリックを暴いていますので、彼の多数の著書からヒントを沢山いただきました。
ですからむしろ記紀に矛盾する内容の伝承に真実が隠されている可能性があります。詳しくは刮目天の古代史をご参照ください。https://blog.goo.ne.jp/katumoku10
畿内説の矛盾、疑問点
①畿内説は基本、中国文献(魏志倭人伝)を嘘だらけ、信憑性がないと言ってるのに
なぜ邪馬台国だけはあった、卑弥呼だけはいたと言うのか。
邪馬台国はなかった、卑弥呼なんていなかったと統一したほうがすっきりする。
畿内説の通り奈良に邪馬台国があったとします
②九州、中国、四国、近畿は少なくとも統治していた。
その規模の国家で法がないとは考えられない。
つまり文字がないとは考えられない。
文字も法もなく統治してたとなると
世界の歴史から見ても日本の起源だけずれてる。
③九州を支配下にしてたとすると
どうやって鉄器を持ってる九州相手に戦争で勝ったのか?
剣で銃に挑むようなもの。
力で統治してたとしてどうやって統治してたのか?かなり難しいです。
④卑弥呼が奈良にいたとして九州、四国の情勢を祈祷で占います。
伝聞するのに何か月かかりますか?
威厳なんてあるわけない。
⑤九州、中国、四国を統治してたのだからかなりの交流があったのは当然。
当然道も整備されてて
船もいっぱいあって人も荷物もいっぱい積んでても瀬戸内の荒波、日本海も余裕です。
航海術は優れたものがあったのでしょう。
なんなら朝鮮、中国大陸も余裕っすよ。
狗奴国の存在
⑥邪馬台国と同レベルの国家だったと簡単に想像できる。
東海、関東、北陸の連合国レベルか?
もちろん鉄器も所有してて、
戦争状態だったので激しい戦いの後があるはず。
それなのに纏向はみんなおいで、どうぞどうぞの開放状態
纏向は邪馬台国の端っこで、すぐ目と鼻の先に敵国あるのにマジですか?
⑦纏向そんな状態(防衛力0)なのに
都あけて中国、四国、九州制圧に出掛ける。
信長、秀吉でも不可能です。
そこで魏志倭人伝なんてファンタジーだから狗奴国なんてなかった。
魏志倭人伝なんて信じられないわなんて言うと
邪馬台国なんてなかった、卑弥呼なんていねーよと言ってるようなもので
畿内説は自らがファンタジーと言ってる。
① 魏志倭人伝通り読めば沖縄の海の中になるんだからしょうがない。これは別に畿内説支持だけに限った話ではない。九州説でも日数の長さを変えなければいけない。
② 共立つまり部族間の緩い同盟関係程度なのでそこまで精緻な法は必要ない。実際に、3世紀からは古墳時代が始まって畿内発祥の前方後円墳が日本全国を埋め尽くし始めるのだから、その前段階的な状態は既に成立していたとみて不思議はない。
③ 鉄器は近畿の日本海側から普通に入っていたので充分九州に対抗できる。
④ 2ヶ月ですね。魏志倭人伝にそう書いてますから。ということは、もし仮に九州説でも同じですよ。九州邪馬台国から北部九州まで2ヶ月かかるはずです。一大卒を伊都国に派遣して北部九州勢は皆従っていると書いてますね。
⑤??
⑥ 狗奴国の比定地は静岡の高尾山古墳です。そんな目と鼻の先ではありません。
⑦ ていうか九州説なんて、比定地自体まともなのが何もないじゃん。邪馬台国も狗奴国も。遺跡は佐賀、墓は福岡、地名は大分、神話は宮崎…都合のいい材料を九州中から適当に集めてるだけ。
そんなことだから学者はほとんど全員畿内説支持。高校の教科書も既に畿内説有力と書いてますよ。京大ガーとか陰謀論じみたことを言ってるけど、昔は天下の東大が九州説を支持してくれてたのに見限られただけでしょ。
近畿説の場合、邪馬台国の範囲が九州から近畿までとなりますね。
その場合、狗奴国は岐阜・愛知か北陸(福井あたり)になってくるかなという感じですか。
たしかに「纏向は邪馬台国の端っこ」になってしまいますね。。。
最近邪馬台国の謎という番組があり、近畿地方か九州地方か2時間特集がありました。日本では主にこの二つの説に別れていますが、中国の専門学者の三人はそろって九州に間違いないという結論で邪馬台国は九州から近畿地方に東遷したのだろうという結論でした。時期はおそらく神武東遷と同時期だろうということで番組は終わりました。魏志倭人伝の重要視すべき点と重視すべきでない点を選別しながら答えを導き出す視点は、やはり中国の古文書と歴史背景をよく精通された学者は日本人からは読み解けない鋭さがありました。凄まじい洞察力でした。話はそれますが邪馬台国の時代にも近畿地方に巨大豪族がいたことは間違いありません。出雲勢力であるスサノオが南九州を治め邪馬台国をつくり、その息子であるニギハヤヒが奈良地方に巨大国を作ったのです。現在の奈良盆地にある三輪山がニギハヤヒの御神体となります。箸はか古墳などや宮殿跡はその勢力の跡なのです。神武天皇がなぜ、南九州から大和に東遷されたのか?このニギハヤヒの孫であるイケスヨリヒメと婚姻するためです。そうすることで天孫勢力と出雲勢力を和解させて、日本国家はできあがったのです。邪馬台国の時代に南九州と奈良盆地に巨大王国があったのです。奈良盆地で多くの邪馬台国時代の遺跡が出てくるのは当然でありますが、それは邪馬台国ではなく、ニギハヤヒの王国なのです。
令和の時代になりました。日本建国から二千年たっても変わらないのは天皇制が継続していることです。改めて日本は神国なのだなと思い知らされます。日本建国の祖はいつの時代も日本人に敬われ、愛されているのだと感じます。
次第に謀略史観じみた説が開陳されてカオスな感じに…
漢書で「百余国」とあり、それを受けて三国志東夷伝で「旧百余国。今使訳通ずる処三十国」とあるわけで
混乱期の短命王朝であった魏が、同じく「大いに乱れ」た倭の全ての国と通商関係を結べていなかったというのが自然な読み方だと思われます。
では残り70国はどこにあるのか、が問題になるかと思うのですが、これは「使訳通ずる処」の更に向こうであるのがわかります。
つまり魏から見た場合一大国から近場の辺り、女王国に服属しているらしい範囲が外交圏で、そこから外についてはせいぜい、当時の女王国の主敵である「狗奴国」が出てくるくらいで全く不明。
これは変な気もしますが、陳寿さんの立場とすれば前王朝の残した数十年前の外交資料をひっくり返して、そこに書いてあることを要約しているわけですから、仕方がないのかもしれません。
なお、例えば女王国の首府が畿内にあり、一大国=壱岐から畿内までを丸々版図としていたとすれば、前漢の時代に確認されていた70余ヵ国はその更に外側、関東や北陸、九州南部ということになります。
女王国は九州にあり、版図自体も九州の一部から大部分だったとした方が、単純な数量的には妥当な気がしますが、断定はできないですね。
>次第に謀略史観じみた説が開陳されてカオスな感じに…
カオスになっているのは本当ですが、その理由は簡単ですよ(^_-)-☆
陳寿たち関係者は邪馬台国が呉を圧迫する会稽郡東冶県の東の海上に在ったことにしたいので、誰かが考えたつじつま合わせを基に邪馬台国へのデタラメな行程記事が書かれているからですよ。多くの研究者が、それに気づかずに、自説の都合の良いように行程記事を解釈し、ほとんど自説に不都合な記述は説明抜きで無視する厚かましさから起こっているのです(;一_一)
匿名の方に反論するのもどうかと考えましたが、陰謀史観という一言で取るに足らない荒唐無稽な説のように誹謗したので一応反論しておきますね( ^)o(^ )
ご自分で陰謀史観と言っておきながら「陳寿さんの立場とすれば」と書き、それでいて陳寿の立場がどういうものか、編纂の真の目的も理解していないようなので簡単に説明しておきます(^◇^)
陳寿は当時の西晋の実力者である張華に引き立ててもらった人物で、張華の顔を立てるために「三国志」を編纂したのですが、一番書きたかったのが西晋の宣帝(魏の司馬懿)の功績を持ち上げるための「魏志倭人伝」だったのです。倭国は238年に大夫難升米らを使者として帯方郡に送りましたが、魏からの返礼が親魏倭王の金印紫綬などであり、当時皇帝の補佐役だった司馬懿が書かせた詔勅の全文が「魏志倭人伝」に書かれているから熱の入れ方が分かります。「三国志」を正史にしたのは張華の力だったと、このあたりの事情は東洋史家の岡田英弘さんの「日本史の誕生」(弓立舎)に詳しいですので、是非お読みください。
陳寿は倭国のことを二人の魏使の報告書に基づき書いているのですが、倭人の風俗は海南島あたりの越人のものと変わらないとしているのは、邪馬台国のあるべき位置を強調するためだと推理できます。さらに、実際の邪馬台国の位置と違う位置に置いた発案者は、魏を後ろ盾にして敵対勢力を抑えたい伊都国の男王だと推理しました。互いに敵対するどういう勢力が女王を共立して和解したのかも説得力のある説はいまだに出ていませんが、卑弥呼は権力を持った女王ではなく、巫女(シャーマン)であって、太陽神のお告げによって実権を持つ男王(=男弟)が政治を行う形態で、シナの目を引くために卑弥呼を女王だと記載したものと推理しています。その他、通説には誤解が幾つかありますが、「日本は古の倭の奴国」という「新唐書」・「宋史」の記述を仮説として、科学的に推論を重ねて日本建国の真相を明らかにしました。もちろん邪馬台国の真の場所も卑弥呼の墓も発見しました。詳しくは拙ブログでどうぞ。
繰り返しますが、科学文献ではない古代の正史に隠された真の編纂目的を考えずに、いくら文章を解釈しても正解にはたどり着けないですよ。これは「日本書紀」なども同様ですが、普通の権力者はその権力の正統性を主張し、将来に渡って子孫が権力を維持するために正史を編纂する訳ですから、不都合な真実は隠ぺいし、歴史を改ざんし、真実に基づいた内容も歪曲されるものと考えない方がどうかしてますね(-_-)/~~~ピシー!ピシー!
編纂の真の目的を推理し、考古学や民俗学や正史に矛盾する伝承などを頼りに記述の真偽を判定する検証と推論によって、ようやく真相が解明されるのですよ(^_-)-☆
多くの有用な情報をありがとうございます。
邪馬台国の位置問題を「魏志倭人伝」だけで解決するのは無理だという証明が皆さんによってなされたと思います。何故なら、「魏志倭人伝」はこてこての政治文書ですから、邪馬台国への行程記事は置きたい場所に置くためのつじつま合わせです。倭国の政治の実権を握っていた伊都国男王の策略だったのですが、魏の実力者司馬懿や部下の帯方郡太守らの事情や陳寿の作成目的を考えずに、いくら自説に都合の良い解釈しても真実から離れるばかりでしょう(^_-)-☆
実は、女王国に対する政治的思惑のない范曄が「後漢書 東夷列伝倭人の条」に残した「自女王国東度海千餘里至狗奴國」(女王国から東に海を渡ると千里余り=約450kmで狗奴国に至る)という記述を信じると、後は考古学などによって狗奴国を特定すれば、全ての謎が氷解しますよ(*^▽^*)
「正史」は「かくあるべし」の理念で書かれた編纂当時の権力者にとって都合の良い歴史でしかなく、不都合な事実は隠ぺいされて真相は抹殺されているという真理に気付けば、何が事実でどこがウソかを科学的に推理して全て解決ですよ(*^▽^*)
詳しくは刮目天の古代史にどうぞ!https://blog.goo.ne.jp/katumoku10/d/20190205
近畿説では魏志倭人伝の記述方位がマッチングしないが、紀元2世紀のクラウディオフ・プトレマイオスの地理学書では海の果てに縁があり島々はその縁に沿っているとの世界地図感であった。この考えは15世紀のヘンリクス・マルテルスの世界地図や16世紀のマルティン・ヴァルトぜーミュラーの世界地図にまで引き継がれている。紀元2世紀頃の世界地図感は中国でも共有されていたと見れば、魏志倭人伝の編者はこの世界地図感を基に東方の海の縁の島国倭国に関する方位の記述を次第に縁に沿って徐々に南に下がるように修正したとも考えられマッチングしない説明がつく。
末盧国に上陸した後から既に方角は狂ってますから、方角が狂ってるのは別に問題ないんですよ。
逆に方角が正確だとすれば、そもそも奴国(福岡)に到達できない。末盧国から奴国までは狂ってるのを容認してるのだから奴国から邪馬台国までも狂ってると考えないと逆におかしい。
文字が伝わる前から地名言葉があり、その後、その言葉が漢字表記され変化しながら現代まで来たと仮定して魏志倭人伝にある周辺国と現代の地名と類似した所を近畿地方で当てはめたところ次のようになり当時の邪馬台国の場所大和地方を取り巻いている様子が見えて来ました。
華奴蘇奴(カナソナ)ーーー金沢、不呼(フコ)ーーー福井、弥奴(ミナ)ーーー美濃、鬼奴(キナ)ーーー岐南(岐阜市)、好古都(コヲコト)ーーー甲頭倉又は甲田(彦根市)、斯馬(シマ)ーーー滋賀(滋賀県)又は志摩(三重県)、対蘇(ツイソ)ーーー津(三重県)、支惟(キイ)ーーー紀伊(三重県)、伊邪(イヤ)ーーー伊予(香川県)、姐奴(サナ)---佐那河内村(徳島県)、都支(トキ)ーーー土佐(高知県)、蘇奴(ソナ)ーーー泉佐野(大阪府)又は曽爾(奈良県)、躬臣(キウシ)ーーー貴志川(和歌山県)呼邑(コヲウ)ーーー御坊(和歌山県)、奴(ナ)ーーー野迫川(奈良県)、邪馬(ヤマ)ーーー山(三重県白山、青山)、巴利(ハリ)ーーー名張(三重県)、烏奴(ウナ)ーーー上野(三重県)、為吾(イゴ)ーーー伊賀(三重県)、巳百支(シハクキ)ーーー信楽(滋賀県)そして狗奴(クナ)ーーー熊野(和歌山県)
不弥(津屋崎)から船で20日投馬(鞆又は福山又は投松)へ、そこから途中で伊邪とか姐奴とか都支が在ることを聞き取りながら難波へ向ったと考えると狗奴の位置も邪馬台国の南にある事を認識したように思われ道中が目に浮かぶような気がします。
邪馬台国の正確な場所は永遠の謎です。考古学者や埋蔵文化専門職の方々は近畿説が多いと思います。宮崎でもそうです。宮崎に邪馬台国があったなどという人はほとんどいません。それが現実です。
元々、古事記による神武天皇即位が、辛酉の年紀元前660年 というのが根本的な間違いです。一人在位が150年の在位など誰も信用しない。神武天皇が南九州の方で
史跡もたくさんあります。紀元前660年であるとすれば、南九州はまだ鉄も普及していませんし、灌漑用水も進んでおらず北部九州と比べてかなり貧しくて、天皇を輩出するような環境はまったく無いのです。この時代の人は短命であり、天皇在位も15年程度とみるべきです。辛酉など紛らわしくするために、偽作されたのです。神武天皇即位は紀元200から300年と見るのが考古学的にみても自然なのです。邪馬台国の時代は、まだ国家として樹立していないのです。弥生の後期であれば南九州から神武天皇が輩出される根拠は間違いなくあります。史跡もたくさんあります。
神武天皇が大軍団を率いて畿内に攻め上った、というのは実は皇国史観時代に盛られたイメージに過ぎません。実際の原本では日向から土地を求めて流浪し、最終的に畿内の一角に土地を得たという方がイメージに近い。そしてしばらくはそこで小豪族程度だったのが、子孫の代に勢力を伸ばしやがて全国の覇者になった。ですので別にいきなり北部九州を制圧する必要も、中国地方を破竹の勢いで攻め上がる必要もないわけです。実際に神武の畿内入りでは土蜘蛛など縄文人らしき部族が多数いることが記述されていますから、縄文時代末から弥生時代前半に、弥生人が稲作に適した土地を探して東に向かったと見るのが自然でしょう。
出雲系の人々が天皇家の正式な先祖と考えます。渡来系の騎馬民族という説もありますが、可能性が高いと思います。もしかしたら日本に最初に馬を持ってきた人々が天皇家の先祖かもしれません。無論、考古学的根拠があるわけではありませんが、出雲勢力は短期間に、米の多く取れる大阪平野と宮崎平野を政略しています。当時、始めて馬を見た人々は恐れおののき、あまり抗うこもなく植民地化されたのだろうと考えます。宮崎平野では集団残虐骨は見つかっていません。大阪平野を政略する出雲勢力はそうとう残虐な方法を使ったようです。(残虐骨が多い) 宮崎平野をおさめたのはスサノオという人物です。オオクニと二代にわたり、宮崎平野を治めました。(昔、この国には 元々男子におさめられていた。魏史倭人伝) オオクニの子のコトシロが幼かったために、アマテラス(卑弥呼)に実権を譲ったよです。これがお国譲りとなります。出雲から実権を奪ったヒムカは一時期関西にいた出雲勢力と争いますが、神武天皇とイケスヨリヒメとを結婚させ、ヒムカの天孫系の皇族となったのです。神武天皇がヤマトに持参した草薙な剣はスサノオの伝承者を意味して関西にいた出雲勢力もそれを認めざる得なかったのです。天皇家の先祖は出雲であり、お国替えで日向(天孫系)になったのであろうと思います。米、鉄、馬こそが日本を国家とならしめたと推測します。天皇家の系図はさまざまあり、あまり、こだわり過ぎては見間違いが起こりやすくなります。史実と神話が重なりあった古事記、日本書紀だけでは歴史は見えてきません。魏史倭人伝はも参考文献と見るべきです。
生目古墳第一号古墳は奈良のはしはか古墳の時代と同時期か、それよりも古いという説もあります。実は生目地方には、まだあまり発掘されていない巨大古墳もあります。公共工事で一部破壊されていますが最も古い可能性があります。弥生時代の土器がかなり発見されていますので卑弥呼の時代か、もう少し、古くなる可能性があります。アマチュアの日高さんというかたが、独学でこの場所に天然の風を生かした、たたら製鉄所があったことを突き止めておられます。これはメガトン級の発見なのですが、埋蔵文化の職員の方々はあまり積極的ではないようです。これが、解明できれば国内最古の製鉄所となり古代日向王朝の謎と邪馬台国の真実がわかるかもしれませんが、惜しいかな推測だけでは発掘はできませんので残念です。宮崎には全国屈指の古墳群がありますが、古墳時代にボンと出来たわけではありません。弥生の中期から後期にかけて海洋航路を生かし鉄製品を交易で得て、また、その技術までも生かし普及させていたのです。巨大豪族は開墾と灌漑用水ラッシュで、米の量産により、短期間に現れたのです。米の量産こそが豊かさと権勢の象徴でした。それは鉄と暖かい風土が結び付き起こったものです。
失礼、命(ミコト)はつきませんでした。
弥生時代最も発展していたのは北部九州です。鉄製品の普及こそが最大の先進国だったのです。しかし、弥生の中期から南九州に急速に鉄道具が普及していきます。温暖で多湿で雨の多かった南九州に北部九州の豪族、もしくは渡来系のニューフロンテアを求めた集団が南九州に上陸し、鉄製品を普及させ、米を量産させ、倭国屈指の豪族となったのです。一時期出雲部政略により侵略(和国大乱) されましたが、日向は政略奪い返し、逆転させアマテラス(卑弥呼)が女王り、邪馬台国の王となりました。北部九州と南九州の形成は逆転し、南九州は最強国となり、近畿にいた出雲政略と和解し、神武天皇を日向から輩出し日本国家はできあがったのです。邪馬台国は宮崎平野であり、その拠点は現在の宮崎神宮付近から生目地区地域となります。阿波岐原から宮崎神宮付近に拠点を移した豪族は生目地区に拠点を移し大淀川から中国大陸に使節団を派遣したり、魏の王朝から鏡をいただいたりしました。邪馬台国最大の悩みが、クナコク(球磨属)の存在でした。球磨属は山間部族であり、神出鬼没に邪馬台国に現れては米や鉄製品をなどの貴重品を奪い山中に逃げて行くのです。深追いすれば山中を熟知していた球磨属に必ず殺られてしまうのです。邪馬台国は一時期滅ぼされかけてしまうこともありました。しかし初代神武天皇を輩出した邪馬台国は、朝廷た結び付きを深め、拠点を西都原に移し、日向と名を改めて、その栄華を極めたのであろうと推測します。
邪馬台国が宮崎だとするといろんな説明がスムーズになりますね。
邪馬台国が宮崎だとすると狗奴国は?ちょっと非現実的だと思います。
アマテラスは古来、正式にははオオヒムチノミコトまたはオオヒミコノミコトと呼ばれていました。(宮内庁天皇系図参照)邪馬台国二代目女王はトヨであり、この二人が、伊勢神宮に祭られている天照大神と、豊受姫となります。どちらも日向の方です。
弥生の後期、魏に使節団を送れるような、巨大豪族は北部九州、奈良地方、南九州の他に考えられません。海洋を生かせる豪族となれば、九州に候補は絞られます。卑弥呼が亡くなったときに巨大な墓が作られたとありますが、その候補となるのが奈良のはしはか古墳と生目古墳となります。生目古墳は日本書紀、古事記にしるされている日本黎明期となる阿波岐原が近くにあります。宮崎平野は天照の活躍された場所であり、宮崎平野は海洋技術を生かし弥生の後期に鉄を普及させ、暖かい地の利を生かし、開墾と灌漑用水を普及させ、豊かな地となり巨大豪族が現れたのです。魏史倭人伝の邪馬台国の条件を全て満たしているのです。神武天皇の東遷以降、近畿が日本の中心となり、南九州にあった邪馬台国の名前が大和となったと考えます。様々な説がありますが、宮崎平野が一番自然なのです。邪馬台国とは当時、倭国の中でも最大の 強国だったのです。だからこそ、中国こ古文書に記録されているのです。
古事記や日本書紀の記述をもっと大事に考えるべきだと思います。確かに後世に作られた物だし、眉唾に思える部分もありますが、それは旧軍部が国民をだます為に行った無理な解釈のせいで、意外に正しい部分もあると思います。特に出雲に関しては本来ならば後の政権にとっては邪魔なはずなのに古事記には結構記述が残っているし、現代の皇室も出雲大社には敬意を払っていますから、上記の大国主の国ゆずりは何らかの史実に基づくのでしょう。神無月や神在月の概念からすると、昔は4~9月の大和の1年と10~3月の出雲の1年と共同統治した時代があって、1年を2年とカウントしていたのではないでしょうか?そうすると記紀が信頼されにくい元になっている古代の130歳の王の説明がつき、しかも実際の年代にあってきます。130/2=65歳ならば生きたと思いますから。記紀を信頼できるならば、大和政権は高千穂に在った「狗奴国」が邪馬台国等を吸収合併(あるいは征服)しながら東征して奈良付近に落ち着いたことが考えられます。中国の史書によれば、「日本」を初めて名乗った国は「元は倭とは別の小さな国」だったそうです。そう考えると面白くはありませんか?
出雲と大和で半年ずつで2年と加算するのは面白い解釈ですね。耕作などを大和がつかさどり、宗教面は出雲が担うとか、そんなこともあったのかもしれませんね。
卑弥呼はアマテラスだと思います。つまり、宮崎平野が邪馬台国だということです。クナコクはクマ国のこと。歴代天皇を悩ませた球磨属のことです。神武天皇の出身が南九州です。東遷と同時に南九州にあったヤマトを近畿地方でヤマトと呼ぶようになったのです。ちなみに神武天皇は南九州の吾平町柏原に住んでおられました。柏原の地名も奈良に東遷しました。吾平町には神武天皇の父ウガヤフキアエズの墓陵である吾平山陵があり、宮内庁管理 となっています。
神代三陵ですね。天照の墓はどこなんでしょうね。
https://www.youtube.com/watch?v=aljW2VJn7f8&t=16s
邪馬台国は 球磨郡にありましたよ! まじで いっぱいいろんなところリンクはってるけど
反応うすい みんな 邪馬台国の場所などどうでもいいんだな ほんとは
球磨は可能性ありますよね。ただ個人的には狗奴国ではないかと思っています。
佐賀県がいいな。
マイナーだし、観光名所にしてあげたい。
北部九州で連合政権を作ったのが卑弥呼の邪馬台国で、南部九州から出発して畿内で出雲、吉備、越、東海の連合政権を作ったのが大和国だと思うの。
吉野ヶ里遺跡がでたときはかなり盛り上がったと思うのですが、その後はあまり新しい発見がありませんでしたね。
南部九州はクナ国と関係ありますかね?
九州から近畿に神武東征で移ったということかと思います。最近調べていて、四国も信憑性があることがわかってきました。 「邪馬台国は◯◯にあった」どこでしょう? 奥が深いですよね🎵
四国は水銀朱なども出ますし、天皇家とゆかりのある氏族もいますよね。邪馬台国と直接関わりがあるかはわかりませんが、軽視されていますよね。
当時水銀朱が出ていたのは四国と和歌山なんですよね。仮に九州説だとすると矛盾するんですよね。弥生時代には既に四国まで畿内型銅鐸の版図に入っていますから、邪馬台国は畿内で間違い無いでしょう。
神武東征の感じだと、近畿に縄文人らしき部族がたくさんいます。ということは時期的には九州の弥生人が近畿へ入った頃。つまり縄文時代末から弥生時代前半までの話でしょう。邪馬台国は弥生時代末から古墳時代初頭ですから、時代が違いますね。既に何世代も前に神武東征が終わった後。
崇神天皇と倭百襲姫の時代だと、箸墓古墳や、大和朝廷が全国展開し始める話と合致して驚く程スッキリしますよ。
私も九州説を支持しますが。
当時の人は、日本列島は福岡あたりから見て、東南の方向に近畿や関東があったと認識してました。
(本州を80度くらい回転させる)
なので、魏志倭人伝の記述を素直に読めば、畿内説もあながち間違いとは、言い切れないです。
あと、卑弥呼は姫巫女(ヒメミコ)の聞き間違いで、個人名じゃなくて役職名だと思います。
コメントありがとうございます。中世ごろの地図でも近畿、関東が南になっているものがありましたね。方角をどこまで正確にたどるかというのはなかなか難しい問題ですね。私はヒミコは太陽をつかさどる「日巫女」と考えていましたが、姫巫女(ヒメミコ)と考えるのが妥当かもしれませんね。
南九州以外ありえない。素直に読めば宮崎あたり。古事記や日本書紀と符合する。なぜ論争があるのか疑問。方向も距離も正しいじゃん。
ご意見ありがとうございます。宮崎は神話もあり、遺跡も多いですよね。
普通に考えれば、どう見たって九州でしょう。近畿なら、山陰山陽、瀬戸内海や、四国の表記が、なぜ抜け落ちているんでしょう。論争になどなり得ないですよね。
コメントありがとうございます。私もそう思っていますが、山陰山陽は少し可能性があるかなと考えています。
近畿説、九州説、出雲説、吉備説など、いろいろ検証したのですが、決定打がありません。魏志倭人伝に沿って考えるので、結論が出ないのだと思います。私は、弥生時代末期の超大国はどこだったかを大規模農業の生産性で考えてみました。古墳時代の近畿が、河内湖・大和湖の干拓で飛躍したように、一時代前も同じような淡水湖の干拓の地を探しました。すると、越前(福井県)が浮かび上がりました。突拍子もないと思われるでしょうが、農業のほか、大量の鉄器出土、翡翠加工場、などもあり、魏志倭人伝の行路にも一致します。何より、卑弥呼死去250年後に、越前から天皇が出現している(継体天皇)のも興味深いです。
コメントありがとうございます。とても興味深いご意見です。たしかに継体天皇は気になりますね。越の国であれば、大国主などの神話ともつながりがとれますね。林・藤島遺跡などからは1000点以上の鉄器が出土されているので、当時は日本海側が先進地域だったのでしょうね。越の国から継体天皇がでたのはそうしたチカラも大きいのでしょうか。
古田武彦や九州王朝論が無視され続けて、九州から重要な遺跡が発見されても、深堀されず、、、
京都学派(邪馬台国近畿説)が、発掘調査費のほとんどを畿内で独占!
未だに、東大vs京大の図式が残る異常な状態、、、
これが真の学問であろうか?
銀河 秋彩 メルアド・ginga3396@nifty.com
ブログ・http://ginga3396.blog.fc2.com/
『三国志魏書』東夷伝・倭人条に記載された、
誰も知らない、邪馬台国(読みは、やまとこく・邪馬臺国)の発祥地は、
伊都国(佐賀県小城市牛津町)から水業二十日南下の、
「倭が君は~」即ち、国歌が謡われた観音堂大鍾乳洞の在る、
投馬国(読みは、とまや←……→やまとの倒語)トカラ列島の宝島である。
僕のホームページ http://www.shinyash.jp/
僕は日本神話と邪馬台国論争と倭の五王の研究をする歴史家です。
このサイトでは『魏志倭人伝』の原文の属国を信じず、新井白石の定説を書いていますが間違いです。
伊都国に比定される古代地名「いと」は、古代地名辞典『和名抄』に福岡県内に2つあって、定説の怡土郡の糸島郡、僕の自論の位登郷の福岡県田川郡糸田町で、僕の自論は宗像郡から福岡県を横断して瀬戸内海に出て、投馬国が土佐で邪馬台国が大和で女王国が伊勢になります。
邪馬台国が古代天皇家で、卑弥呼が倭姫命で、男弟が古史古伝『ホツマツタエ』から求めて倭姫命の異母弟の景行天皇、男王が皇太子の日本武尊、台与が神功皇后なのが正しいはずです。
他にも色々な論理的根拠があって、僕のホームページを見てもらえば分かります。
コメントありがとうございます。とても興味深いご意見です。宗像であれば田熊石畑遺跡などありますし、ここが末蘆国である可能性はあると思うのですが、
伊都国は糸田町だとすると、ちょっと遺跡が少ないように思えます。(発掘されていないだけかもしれませんが)糸島にある弥生期の数多くの遺跡群はどのようにお考えでしょうか?
私はどちらかというと『魏志倭人伝』の記述はあまりあてにしていないので、、、
松浦から検証し直さないと駄目
中国読みでまつろとか有り得ないから
コメントありがとうございます。松浦は私もあやしいと思っていました。
なので当ブログでも、起点は一大國にしてあります。
邪馬台国は宮崎だと思いますよ。伊都国起点に、魏志倭人伝読めば、宮崎ですね。至と到の違いだけだと思います。流石に、東西南北と距離は間違わないと思います。地名と氏名は聞き違いあるかも知れませんが。省略の地名は宮崎に似た地名ありますよ。最後は美々津から畿内に行ったのでしょう。生目古墳と延岡の菅原神社と宇佐八幡宮掘り起こせば、わかるのですがね
邪馬台国があったとなれば、観光資源になるため可能性のある地域は声を上げる。
特に近畿は京大や研究所の声が大きいと感じます。
箸墓にしても纒向にしても、強大な権力の象徴ではあると思いますが、魏志倭人伝の記述と合わない。もう少し先の時代のような気がします。
また邪馬台国ばかりクローズアップされますが、その時代で最も強大な国が邪馬台国であった確証もなく、連合政権=邪馬台国なのか、邪馬台国という国がもともとあった呼称なのかも、さっぱり議論がないのが気になります。
佐々木さまコメントありがとうございます。
興味深い意見ありがとうございます。
結局中国探さないとだめだよねw
倭国伝(九州・四国・中国地方・近畿大和・場合によっては東海も)ではなく倭人(九州から見て四国・中国地方・・・渡海東皆倭種)伝である、陳寿は当時の倭国の状況を十分理解していたと思われる。山島為と冒頭にあり、倭国は島と認識している。。。近畿大和であれば島と認識するということは青森までを認識しないと(本州全部をわからないと島とは認識できない)女王国以北其戸数道里(里とはっきり書いてある・・日数ではない)よって南至投馬国水行二十日、南至邪馬台国水行十日陸行一月は全く別の考えをしなくてはたどりつけない・・つまり場所の意見が分かれている不彌国(道里はここまでしか書いていない)までで万二千里に達している・・・ここまでの中に女王国があります、みなさん考えてください。
投馬国というのは、鞆(福山)のこととか、当時の魏国の発音だと、邪馬台国はヤマトコクと発音するってホントですか
学歴も無い年金生活の道楽てす、魏志倭人伝を読んでストレートに 邪馬台国は熊本と書かれていた、倭国は九州。
教育で畿内が都と教えられ固定観念で 何の疑問も無かったのですが、魏志倭人伝の帯方郡からの道程は女王国迄書かれている。距離と日数と方向が示され 総距離が12000里、100里を7.6km
として計算すると 熊本辺りと考えました所が狗奴国が熊本と考えられているようです。
鉄の鏃、 邪馬台国は80年間乱れ卑弥呼をたて国を鎮まったとあります、2世紀~3世紀の事です熊本の西弥護免遺跡は縄文晩期の鉄器が数多く出土しました、2世紀 鉄の鏃位は有るでしょう。
其山有丹、阿蘇では昔からこの丹は阿蘇の黄土は魏との交易に使われたと言われます。
魏志倭人伝が無ければ縄文晩期の鉄は錆びて無くなり意味をなさななく成って終うところでした。
7万戸を養う食料 稲作 酒 海の幸 温暖な気候 地下水温泉 税金 他 これほど古代の人々の生活をまとめ記録 ワクワクしてしまいます。
古代から各地に小さな国が あった事は事実でしょうしかし魏志に書かれた邪馬台国は熊本だと思います。
邪馬台国 倭国 ヤマト王権 それぞれの真実に決着をつけ もっともっと大昔の歴史を知りたい、そう思いませんか?
70にして何の予備知識もなしに倭人伝を読みました。水行の日数に実感がないのですが、素直に追いかけると熊本だと思います。南を東に置き換えるのはやっぱり無理でしょう。南に男の王の國もあったと書いてあります。