平塚川添遺跡(ひらつかかわぞえいせき)福岡県甘木市
弥生時代中期前半から古墳時代初頭にかけての大規模な集落遺跡で、集落を取り囲むように幾重もの環濠が巡っているのが特徴で、最も多いところでは6重の濠が確認されている。
集落の面積は、約 15 ヘクタール。竪穴住居約 300 軒、掘立柱建物約 100 棟があり「楼閣」「高殿」などの大型建築物の跡も確認されて国の史跡に指定されている。
出土品には多量の生活土器のほか、農耕具、網枠、木製生活用具、玉類、広型銅矛耳部(ひろがたどうほこみみぶ)、中国貨幣(貨泉かせん)などがある。
安本美典氏は、奈良大和地方と朝倉地方との主要な地名が一致し、地名配置も極めて類似点が多いことから、邪馬台国は朝倉地方に存在し、それが東遷し、大和朝廷の母体となったいう邪馬台国東遷説を唱えている。