日本の記録には登場しない「ヤマタイコク」。
古事記や日本書紀はあえて記憶から抹消したのか、そもそも記憶がなかったのか。もしくは全く違ったイメージで描いているのか。
神話と「ヤマタイコク」の接点を探してみようと思う。
今回は第2回目「古代出雲王朝との関係」。(神話と邪馬台国(第1回)「天照大御神は卑弥呼か?」)
出雲といえば、出雲大社。そしてそこに祀られる大国主(オオクニヌシ)。
毎年10月にはすべての神様が集まり、会議を開くという。まさに神々のふるさとと言うべき出雲。
古事記の神話では、その1/3の記述が出雲の話だ。キーワードを挙げるとすると、スサノオ、ヤマタノオロチ、黄泉の国、因幡の白兎、大国主、国譲りなど、誰もが一度は耳にする話ばかりだ。
戦後の歴史学は皇国史観に利用された神話を神経質すぎるくらいに排除してきたが、近年こうした神話を見直そうという気運もあり、考古学的な遺跡もいくつか発見されている。奇しくも、2012年に「古事記撰上1300年」、2013年に出雲大社と伊勢神宮の遷宮が重なり(伊勢は20年の式年遷宮、出雲は70~80年の不定期)話題を集めたばかりだ。
出雲王朝の存在を示す遺跡
1980年台から1990年台にかけての遺跡調査で、出雲周辺から大量の銅剣・銅鐸が出土した。(荒神谷遺跡、加茂岩倉遺跡 :荒神谷遺跡からは358本の銅剣、16本の銅矛、加茂岩倉遺跡からは39個の銅鐸)
特に荒神谷遺跡の銅剣(358本)はそれまでの日本全国の出土総数を上回るものであった。
また、出雲市大津町では弥生時代後期(2世紀末から3世紀)のものと思われる墳丘27基が確認されている。(西谷墳墓群)これは弥生時代に出雲を支配した王たちが存在したことを裏付けるといってもよいだろう。
つまり魏志倭人伝に登場する「ヤマタイコク」よりも少し前の時代から、卑弥呼が亡くなったとされる時代に出雲にも有力な王国(もしくは有力な国)があったことになる。
葬られた王朝―古代出雲の謎を解く (新潮文庫)
- 著者梅原 猛
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- 出版日2012/10/29
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- 文庫383ページ
- ISBN-104101244146
- ISBN-139784101244143
- 出版社新潮社
神話の流れと編纂者の意図
神話では、「天岩戸⇒スサノオのヤマタノオロチ退治⇒大国主の国造り⇒大国主の国譲り⇒天孫降臨⇒神武の東征」とすすむのだが、おおまかには追放されたスサノオ(アマテラスの弟)が出雲でヤマタノオロチ(越国のことか)を退治(三種の神器の剣を得る)して、その子孫である大国主が国造りをして、天孫に國を譲り、その天孫の孫の神武が東征(先祖は西から)をしてヤマトに入るというはなしである。
この話から見えてくる主張は、現在の政権(ヤマト王朝)は血縁の関係があった王権から平和的に政権を譲ってもらった(奪ったのではない)という事か。つまり前政権を否定する立場ではないということだろう。
上記の図は神話と現在の政権(ヤマト王朝)などの関係を簡易に示したものであるが、赤囲いの「アマテラス、ヤマタイコク、ヤマト王朝」が同一もしくは連続性のあるものだとすれば、出雲の神話からヤマト王朝への流れが簡潔に説明ができる。もちろん古事記などには「ヤマタイコク」「ヒミコ」は登場しないが、アマテラスや神功皇后のような「女王」を連想させるような女性が登場する。ここに編纂者の何らかの意図(創作)が感じられなくもない。
広く信仰を集める大国主の神話と伝説
大国主(オオクニヌシ)といえば、出雲大社の祭神であり、現在では縁結びの神としても知られるが、もとは国造りの神、農業神として広く信仰を集めていたようだ。
大国主は国を譲る際に、「富足る天の御巣の如き」大きな宮殿(出雲大社)を建てて祀って欲しいという条件をだしたとされる。
ちなみに、大国主を祀る主な神社は下記のようである。
出雲大社(島根県出雲市)
大前神社(栃木県真岡市)
大國魂神社(東京都府中市)
氷川神社(埼玉県さいたま市)須佐之男命、稲田姫命との三柱
大神神社(奈良県桜井市)
出雲大神宮(京都府亀岡市)
気多大社(石川県羽咋市)
気多本宮(石川県七尾市)
八桙神社(徳島県阿南市)
など
日本で最古の神社のひとつとされる大神神社(別称:三輪神社)の祭神は大物主神(おおものぬし)であり、これは大国主の和魂とされる。(幸魂奇魂:さきみたまくしみたま)一部に大国主と一緒に国づくりをした協力者という説もあり。
古事記には崇神天皇の時代に、「崇神天皇が天変地異や疫病の流行に悩んでいると、夢に大物主が現れて、意富多多泥古(おおたたねこ)に私の御魂を祀らせれば、収まるであろう」という記述がある。
この天皇の御代に、役病多に起こりて、人民死にて盡きむとしき。
ここに天皇愁ひ歎きたまひて神床に坐しし夜、大物主神、御夢に顕はれて曰りたまひしく、
「こは我が御心ぞ。故、意富多多泥古をもちて、我が御前を祭らしめたまはば、神の気起こらず、國安らかに平らぎなむ。」
とのりたまひき。
そこで、天皇は意富多多泥古(大物主の子か?)を捜し出し、三輪山で祭祀を行わせたところ、天変地異も疫病も収まったという。
さらに続いて、古事記では垂仁天皇の時代にも出雲の祟が起きる。垂仁天皇の子であるホムチワケは言葉を発することができない。困り果てた天皇は、占い師に占ってもらう。そして、それが「出雲の大神のたたり」であることを知り、「大国主を祀って大御食を奉った」。するうとホムチワケは話すことができるようになり、それを喜んだ天皇は「神の宮」(出雲大社か?)を修繕させた、とある。
日本書紀では斉明天皇の時代にも、出雲のたたりがあったので、「神の宮」を修繕させたという記述がある。
現在に広く伝わる大国主の信仰は、菅原道真が天満宮に祀られるように「おそれ」によるものなのかもしれない。道真のように「無実の罪」であったり、非業の死を遂げた者が「たたる」と考えれていたからで、大国主の場合も平和的な「国譲り」ではなかった可能性もある。
48メートルの巨大神殿が出雲にそびえ建つ!!
口遊(くちずさみ)という平安時代中期に編纂された児童向けの書に「雲太、和二、京三(うんた、わに、きょうさん)」という言葉があり、これは日本で最も高い建物の順番であり、1位が出雲大社、2位が奈良の東大寺大仏殿、3位が京の平安京大極殿だという。奈良大仏殿が46メートルあるので、それより高かったというのである。
出雲社の口伝では、上古(飛鳥時代)では32丈(96m)、中古(平安時代)では16丈(48m)あったと伝えられている。ちなみに平安時代のものと思われる平面図も残っている。
日本の神社 創刊号 (出雲大社) 分冊百科本誌は、日本各地の神社を、毎号1社ずつ取り上げてその魅力を徹底解説するマガジンシリーズ。創刊号は出雲大社(島根県・出雲市)。オオクニヌシを祀る、日本を代表する神社です。 |
しかし、学者の間では「これは歌の類で、子供が口ずさみやすい、語呂がよい言葉の組み合わせだ」などと片付けられていたが、2000年に地下室を造成していた出雲大社で、径1mの柱を3本束ねた巨大な柱跡が発見された。まさに大国主が国譲りの条件とした大宮殿そのものではないか。都から遠い出雲に、大宮殿を長期間、維持しつづける負担を考えると、その「おそれ」は相当なものであると想像される。
それが「おそれ」でないとすれば、すでに日本全国に浸透していた大国主信仰による権威を逆に利用しようとしたのかもしれない。(あの大国主でさえヤマト王権に従ったのだと)
今も生きる出雲王朝の記憶
これらの考古学的な成果や神話の内容から「出雲こそ邪馬台国だ」とする研究者もでてきた。仮に「出雲王朝=ヤマタイコク」だとすると、古い事記や日本書紀は「神代」のはなしだとしながらも、ヤマト朝廷の前政権の存在を暗に明示していたといえる。(出雲邪馬台国説をとる場合、女王の存在が記紀にはないのが弱点である)畿内にあった(ヤマタイコクとヤマト政権が連続する)と仮定すると、神話のあらすじとほぼ合致する。
いずれにしろ、当時の人々にとって出雲にはヤマト政権が無視、抹消できないほどの「大いなる記憶」が残っていたにちがいない。その「大いなる記憶」の大部分は失われてしまったようだが、今日にも確かに残っている。古代、ヤマト政権は地方の豪族などを「国造」としたが、出雲の国造には天孫の一族が派遣され、「国造(こくぞう)」となり、この家系は現代まで続き、出雲大社の宮司として「大国主」を祀り、出雲国造家として存在するのである。
邪馬台国は二つあり卑弥呼の邪馬台国が台与の 邪馬台国に征服されたと思う。