「君が代」といえば、日本の国歌である。法律としても1999年(平成11年)に「国旗及び国歌に関する法律」で正式に国歌に制定されている。
”君が代は千代に八千代にさざれ石のいわおとなりてこけのむすまで”
(訳)君が代は
千年も幾千年も
小さな石があつまって大きな岩になり、
さらに苔が生えるくらい
長く長く続きますように。
明治の世になり、外交儀礼や軍楽隊の演奏用に国歌が急遽必要とされ、10世紀につくられた古今和歌集と和漢朗詠集などから引用したようだ。
だがこれより古いと思われる類似する歌が、福岡県の志賀海神社に伝わっている。
志賀海神社がある志賀島へは、波の静かな博多湾を左に、玄界灘を右に見る細長い砂州の”海の中道”を通る。昔は島であったが今は陸続きで、福岡市東区に属する。志賀島といえば、「漢委奴國王」の金印が発見されたことが有名である。
当社で春と秋に行われている山誉め祭 神楽歌の中で下記のように歌われている。これは「山を育てると海が生きる」という知恵を古来より守り伝えてきた、海の民である阿曇族の伝統行事である。
君が代は 千代に八千代に さざれ石の 巌となりて 苔のむすまで
略~
あれはや あれこそは我君のめしのみふねかや志賀の浜長きを見れば幾世経ぬらん
香椎路に向いたるあの吹上の浜千代に八千代に今宵夜半につき給う御船こそ、たが御船になりにける
あれはやあれこそや安曇の君のめしたまふ御船になりけるよ
いるかよいるか 潮早のいるか磯良(いそら)が崎に 鯛釣るおきな
いつごろから行われていたのか正確な年代は不明であるが、神功皇后の三韓出兵の際、この神事を奉仕して「志賀島に打ち寄せる波が絶えるまで伝えよ」と賞賛されという言い伝えが残っているので古今和歌集などよりは古いことは確かそうだ。
君が代(我が君)とは、この地方を収めていた安曇氏、またはその神をさすのだろう。(磯良とは、安曇氏の始祖とされ海の神でもある阿曇磯良のことか?)
安曇の君の繁栄を願い、豊漁を祈る歌ということになるだろうか。ただしこの神楽歌だけだと歌詞が変容したり、足されたりした可能性もあるので筑紫の国由来の歌と断定はできない。
埋められた金印 漢委奴国王の金印はなぜ志賀島に埋められたのか?玄界灘沿岸諸国はなぜ大和の支配下に納まったのか?記紀、魏志倭人伝、三国史記をもとに綴る先人たちの野望と愛。 |
「君が代」はすごろく歌?
志賀海神社の神楽歌にでてくる、志賀の浜や香椎はもちろんだが、上記図のように千代に(千代町)、さざれ石(細石神社)、巌(井原山:岩羅山)苔のむすまで(若宮神社:コケムスヒメを祀る)など、現在の福岡市から糸島市の地名が浮かび上がる。
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これを踏まえて歌を詠むと、「我が君」の繁栄を願うとともに、安曇の君の領地は「千代」から「苔のむす」までという距離も含むことになる。つまり時間と距離の双方の意味が含まれ歌としてのイメージも膨らんでくる。無理矢理に地名を当て込んでいる感も否めないが、歌の完成度を考えるとこの解釈はおもしろい。
またこれも伝承ではあるが、コケムスメ(苔牟須売神)は地元では「盤長姫命(イワナガヒメ)」だとされる。
イワナガヒメと言えば、コノハナノサクヤビメ(妹)とともに天孫瓊々杵尊(ににぎのみこと)の元に嫁ぐが、イワナガヒメは醜かったことから父の元に送り返され、これに対してその父は「イワナガヒメを差し上げたのは天孫が岩のように永遠のものとなるように・・・(略)・・・イワナガヒメを送り返したことで天孫の寿命が短くなるだろう」と告げた。これにより人の寿命が決まったという神話が古事記にある。
「君が世」が永遠でありますようにと願う歌に、イワナガヒメを象徴する「岩の永遠性」が掛けられているとすれば・・・。ちなみに、糸島市の細石神社には、コノハナノサクヤビメとともにイワナガヒメが祀られている。
あくまで推測の域を出ないが、このような仮説も古代史の醍醐味のひとつといえよう。