神話から邪馬台国を考える(1回目)は「天照大御神は卑弥呼か?」
多くの歴史家や作家までをも魅了する「ヤマタイコク」。その所在は近畿、九州説に限らず全国に候補地があり、今も不明である。
日本の史料には「ヤマタイコク」は存在せず、中国の『魏書』の東夷伝倭人の条に2000字の記載があるのみである。わずか2000字の解釈を巡って幾多の論争がおきたが、いつまでたっても結論がでそうにない。
考古学的な発見に期待したいところだが、有力な遺跡は多数発見されているものの、決定的な証拠はみつかっていない。
古事記や日本書紀には神代の神話が語られているが、「ヤマタイコク」もしくはそれに準ずるような国は登場しない。記紀が記された8世紀に、すでにその記憶がなかったのか、それともかつて中国の王朝から冊封を受けたというのは体裁が悪かったから記述しなかったのか。
記紀は、当時の天皇家が神代の時代から受け継がれた皇統の家系であることを示し、藤原家をはじめとする一部の権力者たちにとって都合のよい権威付けをするために創作されたものではあるが、すべてがフィクションだと片付けるわけにはいかない。(古事記ではこの神代の時代が全体の1/3をも占め、真実と創作が入り交じっている。)
そこで記紀に登場する3つのシーンとヤマタイコクの関係を考えてみたい。今回はその1回目として天岩戸の伝説を考えてみたい。
天岩戸の伝説「日食?死の再生を示す?」
古事記、日本書紀に書かれている内容
須佐之男命(スサノオノミコト)が乱暴を働いたことに、天照大神(アマテラスオオミカミ)が怒って天岩戸に隠れ、世界が真っ暗になり、神々が相談をして様々な儀式を行いアマテラスを外に引きずりだして、明るさが戻ったという伝説。
「岩戸」(岩門・磐戸)は万葉集にもでてくるもので、2種類の意味がある。
1.高天原の出入り口にある岩戸(日本書記:天孫ニニギが岩戸を引開け降臨)
2.墳墓の出入り口に立てられた岩(死を意味する)
万葉集「河内王を豊前国鏡山に葬りし時に手持女王の作る歌三首」
豊国の鏡の山の岩戸立て隠りにけらし待てど来まさず
(豊國乃 鏡山之 石戸立 隠尓計良思 雖待不来座)
岩戸破る手力もがも手弱き女にしあればすべの知らなく
(石戸破 手力毛欲得 手弱寸 女有者 為便乃不知苦)
真っ暗になったことを科学的に説明すると、日食や火山の噴火などが考えられる。
西暦248年9月5日に福岡や奈良周辺で、早朝(午前5時~6時にかけ)大きな日食(皆既日食に近い)が見られる。(247年でも起きているが、日没近くであるようだ)
(参考:北海道大学情報基盤センターのプログラム 奈良 福岡)
卑弥呼の没年は248年とされ、その死の直前に、狗奴国王との争いがあったことが魏史に記されており、この戦いに敗戦して、その責任をとらされたとの説もある。
(倭の女王卑弥呼、狗奴國の男王卑弥弓呼と素より和せず。倭の載斯烏越等を遣わして郡に詣り、相攻撃する状を説く。)
無理矢理なこじつけかもしれないが、こうした背景から卑弥呼を天照大神に比定する学者もいる。(安本美典 「邪馬台国朝倉説」)
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安本美典氏によると天照大神は天岩戸の事件の前と後で性格、行動が変わっている(高御産巣日神とペアで記述される。下記引用参照)ことから、これは指導者の死と新たな指導者の登場を表したもの(卑弥呼と台与の関係)だとする。様々な異説があるが神功皇后説、倭迹迹日百襲姫(やまとととひももそひめのみこと)説などと並んで代表的な説の一つとなっている。
卑弥呼に推定される女性たち
倭迹迹日百襲姫は近年注目される纒向遺跡などに近い箸墓に葬られた主だとされるが、日本書紀によれば「箸が陰部に刺さって死んだ」とある。最も信仰をあつめる神様としては悲惨な死に方である。
天岩戸後のアマテラスの記述(古事記)
爾くして高御産巣日の神・天照大御神の命以ちて、天の安河の河原に八百萬の神を神集に集えて…
高御産巣日の神・天照大御神、また諸の神等に、葦原の中つ國に遣わせし天の菩比の神、久しく復奏さず。
高御産巣日神(タカミムスビノカミ)は天孫ニニギの外祖父に相当するとされ、天孫降臨に向け登場回数が増え、発言力が増しているのか。(天孫降臨の際には高木神という名で登場)
『日本書紀』の神功皇后紀に「66年 是年 晋武帝泰初二年晉起居注云 武帝泰初(泰始)二年十月 倭女王遣重貢獻」として、倭の女王についての記述が引用されている。このため江戸時代までは、卑弥呼が神功皇后であると考えられていた。しかし泰始二年は西暦266年で、卑弥呼はすでに死に台与の時代になっている。
書記ではこの倭の女王を神功皇后とみており、さらに台与ではなく卑弥呼だと思い込んで(あるいは意図的に)年代を調整したとも考えられる。(神功紀の年代は、200年足すと、ちょうど西暦に一致するが)
井上光貞氏によれば、日本書紀の編纂者は神功皇后を卑弥呼に比定したこともあって、干支を2運繰り上げ(120年)たとしている。
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宋書、晋書には五世紀に倭の五王が朝貢していたことが記されているが、「讃」→履中天皇、「珍」→反正天皇、「済」→允恭天皇、「興」→安康天皇、「武」→雄略天皇等というような推定がなされている。
この推定を信じるならば、「讃」履中天皇が使いを送ったのは五世紀のはじめごろなので、仁徳、応神(神功皇后と仲哀天皇の子とされる)と遡ると、神功皇后の時代は4世紀中頃くらいであろうか。こう考えると、アマテラスと卑弥呼の時代が近づくことになる。
アマテラスの別名は「大日孁貴」(オオヒルメノムチ)であり、「日の女神」という意味がある。卑弥呼(日巫女)も太陽に使える巫女であるから役割としては符号することになる。
ただし、これらも万人がうなずく説とは言いがたい。
またアマテラスからその孫であるニニギの天孫降臨の話は、持統天皇とその孫の文武天皇(幼帝)との関係を暗示したもので、天皇は能力や年齢ではなく、血筋が第一であるという皇位継承のルールをつくるための創作という説もある。(BS歴史館 シリーズ 古代史ミステリー(1) 古事記~国家統一の物語~より)
天岩戸伝説の候補地
候補地の中で宮崎県の天岩戸神社が有名であるが、これは神武天皇の東征が日向からはじまったことにより、後世の日向国(宮崎県)という印象が強いことによるのかもしれない。
京都府福知山市大江町 皇大神宮(元伊勢内宮)岩戸神社。
滋賀県高島市 岩戸社。
奈良県橿原市 「天岩戸神社」。
三重県伊勢市 伊勢神宮外宮 「高倉山古墳」。
三重県伊勢市二見町 二見興玉神社 「天の岩屋」
三重県志摩市磯部町恵利原 恵利原の水穴
兵庫県洲本市 岩戸神社。
岡山県真庭市蒜山 茅部神社の山。
徳島県美馬郡つるぎ町 天の岩戸神社の神域にある。
宮崎県西臼杵郡高千穂町大字岩戸 天岩戸神社。
沖縄県島尻郡伊平屋村 「クマヤ洞窟」
邪馬台国と出雲の関係
天照大御神=卑弥呼
とした場合、気になるのがスサノオとアマテラスの関係、つまり邪馬台国と出雲の関係である。
スサノオは高天原を追い出されたあと出雲に向かい、ヤマタノオロチを退治するなどこの地において出雲王朝の礎を築いたと思われ、その子孫である大国主(オオクニヌシ)は西日本の広範囲にわたって統治をしたとされている。
次回は、出雲と邪馬台国をテーマに考えてみたい。
天孫降臨は古代中国と古代朝鮮の連合軍による侵略戦争
倭国は日本列島の旧国名だが
魏志倭人伝の倭国は北九州と四国と西日本にあった連合国家だった。
邪馬台国は宮崎県と奈良県と四国と京都と岡山県にあった。
大和朝廷の成立した後に邪馬台国は大和に改められた。