神話と「ヤマタイコク」の接点を探る、今回は第三回目「神武の東征」。
(vo.1卑弥呼は誰か vo2.出雲王朝)
現代に受け継がれる建国の日
2月11日は建国記念日。 初代の天皇である神武が橿原の宮で即位した日を日本の建国された日として祝う「紀元節」は戦後に占領軍の意向により「祝日」として改められた。
歴史の通説では、神武の時代(年代の推定は難しい)はまだヤマト政権は確立されてなかった、あるいは神武天皇は実在すらしないと言われているが、その存在はともかくなぜ古事記や日本書紀で「東征」がわざわざ記述されたのかという謎が残る。
しかもその出自は、南九州の日向国(宮崎県)だという。当時(記紀編纂された)の先進地ではない日向国から出てきたことをあえて記述する必要があったのだろうか。 大和の地に中央政権が昔から存在した(東征はしていない)とする方が、当時の政権には都合がよさそうに見えるが、首長霊信仰(大王の祖先の霊を崇めること)による血統に重きを置くヤマト政権にとってはむしろ祖先の記録(西方から来た)を正しく残すことが、霊を継承する上で大切だったのかもしれない。
出生地とされる地には宮崎神宮や狭野神社があり、神武を主祭神として祀っている。特に宮崎神宮には明治以降、天皇をはじめ多くの皇族が参拝した記録が残っている。
神武東征のあらすじ
「神武」という漢風諡号(かんぷうしごう)は奈良時代に淡海三船がつけたもので、『古事記』では神倭伊波礼琵古命(かむやまといわれひこのみこと)と称され、『日本書紀』では神日本磐余彦尊(かむやまといわれひこのみこと)、始馭天下之天皇(はつくにしらすすめらみこと)、若御毛沼命(わかみけぬのみこと)、狹野尊(さののみこと)、彦火火出見(ひこほほでみ)と称される。
神武は天孫のニニギのひ孫にして、四男という設定である。以下「イワレヒコ」と表記する。
古事記では、「天岩戸⇒スサノオのヤマタノオロチ退治⇒大国主の国造り⇒大国主の国譲り⇒天孫降臨⇒神武の東征」とすすむが、構成として、イワレヒコの登場からは「上つ巻、中つ巻、下つ巻の3部」のうちの中つ巻に入る。
物語のあらすじとしては、神話の時代から「人の世」に移り、イワレヒコは兄弟に、日本統治のために本拠を東(大和)へ移そうという提案をし(45歳の時)、宇佐(大分県宇佐市)、岡田宮(福岡県芦屋町)、安芸(7年)、吉備などを経て高嶋宮(岡山県)に入り、8年もの準備期間の後に大和(奈良県)に入る。しかし大阪から大和に入ろうとするが阻まれ、熊野に廻って大和入りを目指すが、ここでも苦戦がつづき、兄弟を失い自らも重症を負う。ようやく高天原からの支援(神剣を贈られる)により大和入りを果たし、橿原宮で即位する。
何ともまわりくどい展開である。偉大であるはずの祖先の「苦難の東遷」を記すことによって得られる効果とはなんだろう。
神武東征の記述による効果
神武の東征は「邪馬台国の東遷」や「九州王朝の分家」だとする説や、天武天皇が大友皇子と皇位を争った「壬申の乱」の焼き直しだと主張するものがあるが、いずれも完全な証拠があるわけではないので立証が難しい。たしかな効果としては、天皇家には「神の加護」がついていると示すことだろうか。(神に一番近い存在、高天原からの支援)
それ以外の効果として考えられるものは、当時(8世紀ごろ)の政権の視線に立って考えた場合、九州は大和から遠く、その支配力は弱かったに違いない。その出自を南九州とすることにより、統治に活用しようという意図のもと創作された可能性も残る。また、ヤマト王権が「出雲」を尊重した(祟を畏れた)のと同様(参照:邪馬台国と出雲王朝)に、九州地方に対して何らかの「畏れ」があった為の配慮かもしれない。
東征が真実だとした場合、畿内にあった「邪馬台国」を九州の王朝が征服したのか、それとも九州にあった「邪馬台国」が畿内の政権(豪族)を制圧したのか、または「邪馬台国」は無関係なのか。いずれにしろ東征の段階(時代)においては出雲は天孫族(のちのヤマト王権につながる)によって支配されていた(もしくは衰退していた)可能性は高い。
歴史に残る地名の痕跡
よく歴史の記憶から消えた痕跡が地名に残っているという。「昔は海だった」「谷だった」など後世に伝える役割も果たしているが、逆に地名によって混乱してしまうこともあるだろう。
たとえば、「大和」である。日本の古代史のキーとなる地名であるが、 古事記、日本書紀とも地名の「ヤマト」は原文で「夜麻登」や「夜麻苔」と表記され、万葉集でも「大和」の表記はない。(ただし現在の多くの記述が「大和」で統一されつつある)また、「倭」を「やまと」と読ませることは中国の史書にある「倭(ワ)」の記述をすべて「ヤマト」に取り込もうとした意図があるのだろう。
「ヤマト」という地名は山跡、山門、山都という記述で各地にみられるし、「邪馬台」も「ヤマト」に近い発音である。古事記などが各地の王族の神話などを一本化(旧辞を改め)したものであるとすると、地名も日本各地にあったものを持ってきたことが想像される。(その逆もあるだろう)地名は歴史の痕跡が残っているかもしれないが、書き換えられた可能性もある。
邪馬台国が大和より西にあったとすれば、そうした歴史をも取り込む目的で「神武東征」が描かれたとも考えられる。注意しなければならないのは、多くの地名が記紀の編纂以降に名付けれており、神話などに由来するものも多いということである。
ひとつの例をだすと、イワレヒコは日向国(宮崎県)から東征を行ったとされるが、記述では「日向国」ではなく「日向(ひむか)」である。北部九州(福岡県)に「日向峠(ひむか)」など日向の地名が残っている。 この地は魏志倭人伝にも登場する伊都国があった地域であるが、「日が登ってくる方向」を日向(ひむか)として信仰の対象となっていたようだ。 また、ニニギが天孫降臨した後、以下のように述べている。
(古事記) 此地は韓国に向ひ、笠沙の御前に真来通りて、朝日の直刺す国、夕日の日照る国ぞ、故、此地は甚吉き地
「韓国に向ひ」つまり「朝鮮半島に向かって」という意味であろうが、この表現があてはまるのは北九州だ。宮崎県にいて「韓国に向ひ」という表現はなかなか出てこないだろう。この周辺には神話などに登場する地名がいくつかあり、イザナキが黄泉の国から帰って禊をした「小戸の橘」の「小戸」やヤマトと読む「山門」などの地名がある。(多くの説では小戸は宮崎県にあるとされ、橘地区という名称も残っている)
小戸には「小戸大神宮」があり、その由緒書きには以下のように記載されている。
「神代の昔、伊邪那伎命が御禊祓の神事を行われた尊い地であり、皇祖天照皇大神を始め、住吉三神、他神々が御降誕され、神功皇后の御出師および凱旋、上陸された実に由緒深い神社であります。」
これが事実であるならば、まず出雲に国譲りを迫り、兵力を整えた後に東征を行ってヤマト王権を打ち立てたというストーリーも成り立つことになる。(邪馬台国の東遷)また 同じ東遷説でも、北九州にあった邪馬台国が一度南九州に下った後に東遷したという説もある。
大和朝廷の起源 邪馬台国の東遷と神武東征伝承 推理・邪馬台国と日本神話の謎 安本美典(著) |
『古事記』『日本書紀』の伝える神武東征伝承こそ、邪馬台国勢力東遷の記憶である。神話は、史実を伝えている。北九州に存在した邪馬台国(高天の原)勢力の一部は、卑弥呼(天照大御神)の死後、南九州に下った。南遷した勢力のなかから、神武天皇の名で伝えられる人物があらわれる。神武天皇は、西暦三世紀の末に東征し、大和朝廷をひらいた。(大和朝廷の起源 安本美典)
もちん邪馬台国東遷説にも弱点がいくつかあり、庄内式土器の研究から、近畿からの九州への移動は確認できるが、九州から近畿への移動は確認できないことや、当時の九州の墓制である支石墓などが近畿に影響を与えた痕跡がないという。そのため、九州南部の隼人に伝わる神話をヤマト王権が取り入れたという説もある。
大変失礼しました。
ちょっとシステムがおかしかったようです。
見直してみます。
<東方 東征に引っ張られてしまいました、、、 ありがとうございます
こんにちは。記述に小さな間違いを見つけました。
誤) 祖先の記録(東方から来た)を正しく残すことが、霊を継承する上で大切だったのかもしれない。
正) 祖先の記録(西方から来た)を正しく残すことが、霊を継承する上で大切だったのかもしれない。
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