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よみがえる邪馬台国「魏志倭人伝の時代の伊都国」

よみがえる邪馬台国「魏志倭人伝の時代の伊都国」

2014年9月28日に吉野ヶ里歴史公園で開催された「よみがえる邪馬台国 基調講演」の内容を簡単にまとめました。
邪馬台国畿内説をとる西谷氏、九州説をとる高島氏と伊都国の発掘にあたる岡部氏。それぞれの立場からの「伊都国」に関しての発表でした。また基調講演後に朝日新聞社編集委員 中村氏の進行によるフォーラムも行われましたが、その様子はまた別途作成予定です。

伊都国は現在の福岡県糸島市周辺(福岡市の西にあたる)のエリアにありました。あの金印が発見された志賀島とも近い距離にあります。個人的には邪馬台国へのカギは伊都国が握っていると思っています。

関連記事:邪馬台国はどこか? 畿内説と九州説の検証「発見のカギは伊都国と出雲」

よみがえる邪馬台国 基調講演(吉野ヶ里歴史公園)

倭人伝の道Ⅱ 邪馬台国の外交拠点『伊都国』
弥生時代、強大な権力を有した代々の王が居り、邪馬台国の外交拠点として特別な存在であった「伊都国」の全貌に迫る。

■伊都国発掘最前線
糸島市立伊都国歴史博物館 岡部 裕俊氏
■魏志倭人伝と伊都国
糸島市立伊都国歴史博物館名誉館長 西谷 正氏
■伊都国と邪馬台国
学校法人旭学園 理事長 高島 忠平氏

伊都国発掘最前線

岡部 裕俊氏

伊都国の弥生時代の主要な遺跡
(上記参考図は講演で使用されたものではありません)

伊都国 弥生時代の海岸線
(上記参考図は講演で使用されたものではありません)

2000年前(弥生中期後半) 大きな集落(三雲井原遺跡)がでてくる。
瑞梅寺川と川原川に挟まれた南北1000m、東西700mの範囲に拡がる伊都国最大の集落跡。

南端では三雲南小路王墓、井原鑓溝(ヤリミゾ)王墓などが集中。その北西には平原王墓

三雲南小路王墓は一辺が30mを超える方形の墳丘墓で築造後200年以上も墓前祭祀が繰り返されていたことが確認されている。また地下(墳丘の下)に王墓があるのは、三雲南と須玖岡本の王墓のみではないだろうか。(中国の影響)

井原鑓溝遺跡の地図、平原遺跡、三雲南小路遺跡の位置関係
(上記参考図は講演で使用されたものではありません)

鑓溝(ヤリミゾ)地区では80基を超える集団墓地が確認され、そのうちの20基から副葬品が出土。子供の墓からも副葬品が出土しており、珍しいケース。

特徴としては、ガラス玉が1万2千個出土している。(伊都国全体で1万5千個なのでかなり多いといえる)

王墓の所在が不明になっている(江戸時代に銅鏡21枚が発見されたとの記録はある)が、エリアは近年の発掘成果から、かなり絞りこまれているので期待される。

王墓の時代としては、三雲南小路→井原鑓溝→平原と進むとみられる。

■伊都国の地域構造と最近の発掘状況

25箇所の集落が確認されている。

魏志倭人伝には伊都国 1000戸、末盧(松浦)4000戸、一大(壱岐)3000戸とあるが
壱岐では10箇所程度の集落が確認されている。魏略にあるように「余万戸(1万戸くらい)」が正しいのかもしれない。

糸島半島には港湾集落があり、交易活動の拠点であったことが明らかになっている。
元岡遺跡、新町・御床松原遺跡、今宿五郎江遺跡などでは中国の銭貨なども出土している。(貿易で使用された可能性がある)

今宿五郎江遺跡出土品
(上記画像は講演で使用されたものではありません)

また伊都国の東西には、環濠をもつ集落が発見されており、魏志倭人伝にあるような「倭国大乱」がイメージされる。(今宿五郎江遺跡、吉井水付遺跡)

閏地頭給遺跡では国内最大の玉つくり工房群が発見されている。(ガラス玉を輸入して、碧玉などを輸出か)

魏志倭人伝と伊都国

西谷 正氏

魏志倭人伝は2000字足らずであるが、伊都国に関しては2箇所で記述され、邪馬台国への道程において、43文字(戸数や王の存在、帯方郡から使者が滞在するなど)、後段では68文字(一大率の存在、文書や贈答品の検査など)、計111文字も割かれている。

魏志倭人伝 伊都国の記述

一大率とは、魏の 「刺史」のようなものだとされているが、これは、当時の魏ではいくつかの郡を統括する州の長官を指す。(当時は9つの州があり、その下に郡、県があった)すなわち一大率は「いくつかの国々を統括する長官」ということになる。伊都国は外交拠点かつ内政の拠点であったことが伺われ、律令時代の太宰府につながっていくのではないか。(9国3島)

「世有王」(代々王がいた)と魏志倭人伝にあるように、三雲南小路遺跡、井原鑓溝遺跡、平原遺跡で王墓と思われる墓がみつかっている。

閏地頭給遺跡からは玉つくり工房群が見つかっているが、玉が漢や魏との外交に使われたのではないか。また同遺跡から船の材料がみつり、当時利用されていた船が「準構造船」であることもわかっている。

閏地頭給遺跡 準構造船の船材
(上記画像は講演で使用されたものではありません)

補足:準構造船とは、縄文時代以来の伝統的な丸太をくりぬいた丸木舟の両舷び側板を取り付け、船の深さを増して大型化をはかった船。積載量や耐航性があがる。

一大率の役所は加布里湾近辺か。
閏地頭給遺跡の東側で、大型掘立柱の建物をが見つかるが、調査が道路拡幅工事の範囲内のみということで断念した。一大率関連の建物群ではないかと想像している。

■伊都国と志麻国は別である

古墳時代「怡土の県(あがた)」

律令時代に「怡土郡」「志麻郡」となるが、誓願寺というお寺にある、12世紀の記録に「志麻の県」という記述がみつかる。ここから、志麻国があったのでは?
(志麻国→志麻の県→志麻郡)
立派な掘立柱が見つかった一の町遺跡などが志麻国の中心か。伊都国エリアのような王墓は見つかっていないが、建物郡は志摩エリアの方が多く見つかっている。

伊都国と邪馬台国

高島 忠平氏

後漢書にある金印の記述「倭奴国王」は「わのなこく」ではなく、「わど」である。
蔑称としての「匈奴(きょうど)」などと同様である。(福永光司氏の解釈)

倭人を「倭種」として一定の集合体として認識(漢書地理志」

魏志倭人伝の「国邑(こくゆう)を為す」は
「邑」は宗廟のない国を指す。
「都」は宗廟のある国を指す。

「一大率」は玄界灘湾岸の7、8カ国の統治か。

対馬、壱岐、末盧、伊都、志麻、早良、糟屋、宗像など。(西谷氏と同様に、志麻国は別あったとする)

魏志倭人伝には卑弥呼が30カ国によって共立された女王とある。
北部九州だけで約40カ国ほど存在していたのでは?

初期律令国家の時代には、450あまりの郡が置かれていた。
具体的な数字は不明だが、邪馬台国が奈良にあったとすると、国の数は数百に及ぶのではないか。

西谷先生がおっしゃっている一大率と太宰府のつながりは、ちょっとタイムラグがありすぎるのではないかと思う。

伊都国は、支石墓、人骨の形質から海人集団が主体になっていたと思われる。
朝鮮、中国との対外的な関係を重視した当時の倭人社会にあって、海洋国として女王国30カ国の中枢的な立場にあったのではないか。

こうした地域から卑弥呼が各国によって共立されたと考えれば、平原王墓(平原1号墓)は卑弥呼の墓であってもよいのではないか。

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