大野城(おおのじょう、おおののき)福岡県大野城市・宇美町
古代の朝鮮式山城。
日本書紀の天智天皇4年の8月条に
「遣達率答㶱春初、築城於長門國。遣達率憶禮福留・達率四比福夫、於筑紫國築大野及椽二城。」
とあり、長門国に1つ、筑紫国に大野城と椽城(基肄城)を築かせたとある。建築は亡命百済貴族の憶礼福留(おくらいふくる)と四比福夫(しひふくふ)が当たったとされている。達率(たつそつ)は百済の官位名。
四王寺山の尾根をつたって延々8.2キロ以上に及ぶ土塁が廻っており、土塁が谷にかかるところでは、石垣が築かれ、北に1箇所、西南に1箇所、南に2箇所の城門を開いている。特に北側にある大きな谷部につくられた石塁は百間石垣(ひゃっけんいしがき)と呼ばれて、長さ約200メートル、最高の高さは約6メートルもある。
大宰府の西方に築かれた水城や基肄城などとともに大宰府を守る役割か。
近年の科学的な調査の成果では、白村江の戦い前に築造された可能性も指摘されている。
古代の山城として知られる特別史跡・大野城(福岡県)は、唐・新羅連合軍に敗戦した白村江の戦い(663年)後に国が築城した対外防衛施設とされている。ところが、大野城の城門跡で出土した柱根の伐採年代を、X線CT画像の最新技術で検討し直した結果、650年ごろと新たに判明した。築城時期が白村江以前にさかのぼる可能性も出てくる結果だけに、波紋を呼びそうだ。今回の再検討に携わった赤司善彦・九州国立博物館展示課長は「日本書紀の665年の記述は、白村江の敗戦が契機の築造開始時期とされてきた。しかし大工事だけに2、3年での築城は困難ではないか。665年を築城開始ではなく完成の時期と考え、築城期間を長く見積もれば、築城開始を650年ごろまでさかのぼらせてもいい」(毎日新聞 2012年10月22日 西部朝刊)