荒神谷遺跡(こうじんだにいせき)または地名をつけて神庭荒神谷(かんばこうじんだに)ともいう。
1984年~1985年の2か年の発掘調査で、銅剣358本、銅鐸6個、銅矛16本が出土し、銅剣の一箇所からの出土数としては最多である。(それまでの日本全国の総数を上回る)年代としては、一世紀後半とされる。(主な出土品は国宝に指定され、現在は文化庁が所蔵し、島根県立古代出雲歴史博物館などに保管)
銅剣358本のうち344本のなかご部分(刀身の柄に被われる部分)に「×」印が刻まれていた。(銅鐸などにもあり)全国でもこの現象が見られるのは、近隣の加茂岩倉遺跡などでしかない。「×」印の意味はいまだに謎であるが、埋納した剣のもつ霊力が逃げないようにする為の手段などとも考えられてる。梅原猛氏は縄文時代依頼の来世観がまだ生きており、「この世で不完全なものはあの世では不完全」「あの世とこの世は万事あべこべ」という信仰ゆえに銅鏡などを壊して(破鏡)埋めることが行われた。として、この「×」印は壊す行為の代替であると述べている。
当初銅剣や銅鐸は畿内でつくられたとの説が有力であったが、北部九州説や出雲地方で銅鉱山や鋳型を作るための材料となる「来待石」が多く産出することから、出雲産という説でてきた。5号銅鐸は最古の形式であるI式である。なお6個の銅鐸の高さはほぼ同じ(20センチ)である。
古事記、日本書紀の神話の大部分を出雲系の話が占めており、強大な国家が出雲に存在したのではないかと言われてきたが、それが考古学的に証明もされた。その他、加茂岩倉遺跡や鳥取県西部でも妻木晩田遺跡(弥生~古墳:楼閣が発見)などが相次いで発見され、古代の山陰地方に巨大な王権があったことをうかがわせる。