大宰府政庁跡(だざいふせいちょうあと)。都府楼跡(とふろうあと)ともいう。
万葉集には”遠の朝廷(みかど)”と詠まれ、その規模をしのばせる立派な礎石が残る。
大君の 遠の朝廷と あり通ふ 嶋門を見れば 神代し思ふ(柿本朝臣人麻呂)
その規模は平城京や平安京に次ぐ大きなものであり、南北22条、東西24坊の都市計画があったという説もある。
白村江の戦いのあと、防衛や外交拠点などの必要性から那の津の官家(なのつのみやけ)をここに移したとされる。西海道9国(筑前、筑後、豊前、豊後、肥前、肥後、日向、薩摩、大隅)と三島(壱岐、対馬、多禰)行政・司法を所管した。
鴻臚館(福岡城跡となり)と現在の博多駅あたりから、大宰府まで直線の道路が2本ひかれており、その途中に水城や大野城などを設けその守りを固めていた。